ペテロは力を込めて言い張った。「たとい、ごいっしょに死ななければならないとしても、私は、あなたを知らないなどとは決して申しません。」みなの者もそう言った。(マルコ14:31)
この言葉の直後にペテロは、イエスさまの最後の祈りの間も起きていることさえできず、三度起こされている。人の生まれつきの強さは、霊の戦いには助けにならないものである。
それから、イエスは戻って来て、彼らの眠っているのを見つけ、ペテロに言われた。「シモン。眠っているのか。一時間でも目を覚ましていることができなかったのか。
誘惑に陥らないように、目を覚まして、祈り続けなさい。心は燃えていても、肉体は弱いのです。」(マルコ14:37~38)
ペテロは若い漁師だったから、丈夫な肉体を持っていたであろう。しかし、サタンが彼をふるいに掛けるために用いたのは、そのからだだった。
彼の心は燃えていたが、呪いを掛けてまでイエスを「知らない」と言ったのは、肉体を責められる恐怖からだった。
しかし、ペテロは再び打ち消した。しばらくすると、そばに立っていたその人たちが、またペテロに言った。「確かに、あなたはあの仲間だ。ガリラヤ人なのだから。」
しかし、彼はのろいをかけて誓い始め、「私は、あなたがたの話しているその人を知りません。」と言った。(マルコ14:70~71)
ユダはイエスさまの財布を持っていた。その金をいつも盗んで自由にしていたのだ。イエスさまに捧げられた香油さえ、銭勘定して惜しんだのはもっと自分のものにしたかったからである。
しかしこう言ったのは、彼が貧しい人々のことを心にかけていたからではなく、彼は盗人であって、金入れを預かっていたが、その中に収められたものを、いつも盗んでいたからである。(ヨハネ12:6)
ユダは弟子達の中で誰よりも金を持っていた。サタンは金持のユダの金を足台にして入ったのだ。人の心は、金の嵩に比例してその支配を受けるものである。
サタンは人より多く持っているものに働く。健康や才能や財産や名誉・・。しかし、イエスさまを持っていることはすべてを持っているのである。目の前に積まれた札束よりも、必要に応じて備えられるほうが無限である。
金銭を愛する生活をしてはいけません。いま持っているもので満足しなさい。主ご自身がこう言われるのです。「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。」(ヘブル13:5)
弱さに対しては、イエス・キリストは壊される弱さを持って世に来てくださった。それゆえ病も経験してくださった。その弱い体を通して十字架で罪をあがなってくださったのだ。
そうして、よみがえられた主に拠って、今私たちにも滅びない完全なからだが準備されている。
血肉のからだで蒔かれ、御霊に属するからだによみがえらされるのです。血肉のからだがあるのですから、御霊のからだもあるのです。(Ⅰコリント15:44)
ペテロの弱さは、イエスさまの祈りの備えによって守られた。私たちの弱さに対しては、真実な主は必ず必要を備えて守ってくださる。しかし、それは恥の中でみことばに留まることで成就するのだけれど。
シモン、シモン。見なさい。サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました。
しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。(ルカ22:31~32)
キリスト者にとっては弱さが問題ではなく、むしろ強さ、強くありたい願望の中にこそサタンの足台がある。すでに備えられて、内に持っているものに留まるべきである。
強くなるための訓練や組織作りよりは、弱さに働く神の力を味わうほうがみこころに叶っている。
しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。(Ⅱコリント12:9)
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