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石ころ

十字架につけろ (ヨハネ19章)

 

 律法には「殺してはならない」と書かれていますから、ユダヤ人が死を言い渡すことはできないのです。
彼らがイエスさまを、「自分を神だと言った。」と言うことで、神への冒涜により死刑にすると言うなら律法を守るためであるはずです。

しかし、彼らはイエスさまを十字架で殺し、律法の「殺すな」という命令を蔑ろ(ないがしろ)にしました。たとえユダヤ人自身で判決を言い渡さなくても、異邦人を利用して律法を骨抜きにしたのです。人はこのように、自分の都合で神の命令さえもねじ曲げ、その矛盾に気づかない鈍感な者です。

「そこでピラトは、そのとき、イエスを、十字架につけるため彼らに引き渡した。」と書いてありますから、彼らが殺したのです。たとえ実際はローマ兵が手を下したとしても、彼ら自身が無実のイエス・キリストを、一つになって叫び十字架にかけたのです。

 イエスさまこそが王の王です。でも、その王様は茨の冠でした。むち打たれ傷つき痛めつけられて、イエスさまはユダヤ人の前に引き出されました。
このようなイエスさまのお姿を見た民衆は、憐れむこともなく「十字架につけろ」と叫びます。

「ホサナ ホサナ」と喜び迎えた方を、どうして「十字架につけろ」ということになったのでしょうか、それは、その時のイエスさまのお姿が彼らの気に入らなかったからでしょう。
イエスさまの打たれ、弱々しいお姿は憐れであり見栄えがしなかったからです。
そのような王は彼らには恥だったので、彼らは「カイザルのほかに王はない」と選択したのです。

 人には知性や良心はあるのですが、煽られ感情をかき立てられ、人の肉性がむき出しになるとき、それらは何の役にも立ちません。
異教の祭りや催しの中にもこのようなエネルギーをみることが出来ます。

その時人はバベルの塔を建てた時のように、ひとつになって叫び、力を合わせて働きます。それは神に逆らう時に吹き出す肉の力が強烈だからです。
しかも感情は揺さぶられ、それが素晴らしいことのように思え、美しいことのようにさえ見えるのです。

 信仰においてはみんなでいっせいに神に従順する事はありません。ひとり一人イエスさまと向き合って進む時に、同じ御霊の働きによって、神の計画を成す歩みとなって行くのだと思います。
むしろ、その計画が始まったときには恐れ戸惑うものです。一人神の前に決断して従順しなければならないからです。

人はその計画を知らないからです。でも、ヨシュア達の行く手にを遮り、神の計画を遮っていたヨルダン川の水が目の前で引いて道が開けたように、主によって一歩踏み出すとき、その全容を聖霊は示してくださるのだと思います。


イエスさまが人の形を取られるときに、すでに備えられていた十字架の準備は、イエスさまの謙遜なお姿にあったのだと思います。
旧約聖書の中で、神が人に王様を立てられるときの選びは、サウルもダビデも美しい姿でした。人の肉性は美しい形が好きなことをご存じだからです。

しかし、イエスさまは人が見とれるような姿形ではなかったと書かれています。
ユダだけが十字架のための備えではなくて、イエスさまのそうした様子が、すでに十字架に対する備えであったと思います。人は知性や理性で選ぶのではなく、感情によって選ぶ者だからです。

彼は主の前に若枝のように芽生え、砂漠の地から出る根のように育った。彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。

彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。(イザヤ53:2~3)


神は、イエスさまが人の感情に受け入れられるようには造られなかったのです。それが、十字架への備えであったことは、最後に「十字架につけろ」という、理不尽な叫びに見ることが出来ると思います。


 信仰もややもすれば荘厳な教会堂や、優しい牧師先生との交わり、兄弟姉妹の愛が中心となって、そんな人の感情によってふわりと包まれて、信仰生活の月日が気持ちよく流れて行くことになりますが、それは一皮剥けばイエスさま抜きの人間同士の寄り合い、世的な仕組みにであったりすることにもなります。

ピラトは「私にはあなたを釈放する権威があり、また十字架につける権威があることを、知らないのですか。」と言っていますが、彼はユダヤ人を恐れ、イエスさまを恐れています。彼には何の自由もなかったのです。
ただ、神の計画のままに、イエスさまを十字架に渡すほかなかったのです。

人は神を離れて、「私は自由だ」と勘違いをします。しかし、神を離れた者にはは何の自由もありません。彼らは自分の選択によって、がんじがらめであることに気づいていないだけです。
彼らが滅びるのは神にはよらず、彼ら自身の選びによるのです。


彼女と、イエスさまを「十字架につけろ!」と叫ぶような、自分ではどうしようもない感情の悩みについて話し合った。
「良くなりたいのに・・」
「たぶんそれは無理でしょう。それが出来るのだったら十字架は要らないもの。」

自分を見つめていないで十字架に安息し、イエスさまに感謝をしながら生きましょうと・・、もうすぐこのやっかいな肉からも解放されるのだからなんて、老人ならではの希望を分かち合ったり・・(笑い)

そういうわけで、私は、善をしたいと願っているのですが、その私に悪が宿っているという原理を見いだすのです。
すなわち、私は、内なる人としては、神の律法を喜んでいるのに、
私のからだの中には異なった律法があって、それが私の心の律法に対して戦いをいどみ、私を、からだの中にある罪の律法のとりこにしているのを見いだすのです。
私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。
私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。ですから、この私は、心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えているのです。(ローマ7:21~25)

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