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石ころ

あきらめてしまわないように・・

 満開のソメイヨシノは、折からの強風に薄紅色の花びらを舞い散らせ、咲き始めたヤマザクラは、楚々としてほころびかけた花を小枝につけている。
コブシの大木は白く盛り上がり、桃は濃い紅を差したように華やかでちょっぴり妖艶。散り始めた黄色いレンギョウ、スモモは枝いっぱいに小さな花が雪のよう・・今まで何処にこれほどの木々があったのかと、この時期いつも驚かされる。

サッササッサと駆けるように歩いていたのは、ちょっと意地を張っているからだった。そんな私の肩をトントンと叩くように、春が、主の備えられた美しいものに目を上げさせてくれた。
がんばっている気持ちを花々に笑われているようで、微笑まれているようで次第に力が抜けてゆく。


 悲しい電話を切った。その後で押し寄せてくる衝撃によって「アア・・、ワタシハカノジョヲ、アイシテイタ」そのことに・・気づいた。
先日、倒れた事を聞いて驚いたけれど、「検査をしてもどこにも異常はなかった。」と明るい声の返事を聞いて機嫌良く話しこんだのだった。

けれど、でも、これは重大なことだから、「イエス様を信じて、死ぬための準備をしておきなさい。」と言ったとき、それまでの口調はがらりと変わって「ああ、イエスさまとか、そのことは私はけっこう。」ぴしゃりと断られた。

 彼女も生まれたときから祈られていた人だから、日曜学校にも行ってイエスさまを知っているのだから、まさかこんなことになるとは思ってもみなかった。いつでも伝えれば応えてくれると甘く見ていた。今までの親しい交わりはすっかり色あせてしまって、心の底から冷たいものが吹き出してくる。

主よ、と叫ぶ
彼女を憐れんで下さい
そして、私をも助けて下さい。「かっては愛していた。」と過去にしてしまわないように・・。
イエスさまの十字架はすべての人のためだけれど、群衆が救われるわけではない。ひとり一人の名を呼んで「あなたはわたしを愛しますか」と聞かれる。
羊と山羊をわけられるけれど、私たちは自分自身でどちらに付くのかを選択することが出来る。

「人はその犯すどんな罪も赦していただけます。また、神をけがすことを言っても、それはみな赦していただけます。」(マルコ3:28)
イエスさまの忍耐を思うとき、私の心はいつも慰めを受ける。新しい勇気を受ける。だから「待とう!」と思った。
春の野は主の慰めに満ちている。癒しに満ちている。力に満ちている。

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コメント一覧

石ころ
エシュコルさん教えて下さって感謝します。
聞いていたのですが・・もう一度聞き直します。
エシュコル
天国のカギは
http://hswofach-wtl.jugem.jp/
先日Lukeさんが語って下さいましたよ。
石ころ
主は十字架というリスクを覚悟の上で、私たちに自由を下さったのですね。
私たちが、地上でつなぐなら、それは天でもつながれており、地上で解くなら、それは天においても解かれている・・・
よく理解することは難しいのですが、とても厳粛なことだと思います。そして責任もあるのだろうと思います。
電気屋です
やさしいお言葉ありがとうございます。
彼女の忘れ形見も二十歳くらいになられたでしょうか。
私の肉の目では見てませんが、さらによい暖かいまなざしで見ていてくださっている方がいます。
私の願いは何よりイエス様がご存知ですので安心しています。
主に権利、権威、まことそのとおりです。
ですからこそ、希望は絶えません。
ただ、まるで、惜しみなくいつも与えてくださる主は時にそれをも私たちに与えてくださっている様にも見えます。

全能なる方は見ようとすれば、知ろうとするならそれさえ知ることが出来るので、まるで最初から決まっている様に私たちが思う時があるだけじゃないだろうか。
神はただイエスを主とすると選んでくれた人を選ぶことにしていて、主権はその一人ひとりに渡してあるのではないのか、主はさまざまなリスクをご自分が支払う覚悟で土から造られた私たちに自由を今日も与えてくれているのではないか。

私ではなくキリストが生きている時に、私たちとイエスの区別が見えない様なとき、天のカギも、この手に渡してくださっていて、私がつなぐと天においても繋がれている我が子が家に連れてきたいと思い、そのこも「うん、いく」というなら、父は家にいれないだろうか、そのつもりでカギをくれたのではないのだろうか。
信仰は今の不安を消してくれ、希望は失望を与えない、そして愛は恐れを消しありえないことをいつもおこしてくれて、いろんなものを束ね結んでくださる。
本当にみないで信じるものは幸いです。
石ころ
電気屋さんお証感謝します
とても感動しました。そして、希望を持つことができました。
とがった言葉が主に向けられるのを聞くとき、自分の中に憎しみが生じますが、もちろんそれは私の肉からであって、イエスさまからではありません。でも、時にはそれがごっちゃになってしまいます。

その方に、お会いになりたいでしょうね。主はどのように育てて下さったのでしょう・・。
石ころ
エシュコルさん感謝します
みことばの続きは
「しかし、聖霊をけがす者はだれでも、永遠に赦されず、とこしえの罪に定められます。」(マルコ3:29)
とあります。この部分については私は関与することが出来ません。
もっとも寂しく思って下さる御方は、イエスさまであることを知っています。
電気屋
本当に、桜って立ち止まって見上げさせてくれますね。感謝です。

だいぶ前に末期の方の日赤に通わせていただいていた。
旦那に怒り、宗教に怒り、八神純子に怒りそんな話を聞いていた。
私の添加物や香料の入った福音は頑として口になさらず、日々が過ぎたある日
いつものようにベッドのいくとからになっていた。
「遅かったか」
と集中治療室に行くと九州からさんざん彼女から聞かされ続けた悪い旦那が立っていた。
私の事はきいていたみたいで「意識の無くなる前なんですが、キリストだけは私に悪いことしなかった。どうか私たちの子供にもそれをつたえて、、」そう彼女卯が言ったと言いかけて彼は泣き崩れた。私も泣いた。
沢山の話をした、思っていた通りの言い旦那だった。最後に多分地上では会うこともない彼にその時もっていた聖書を渡してわかれた。
彼と2人の娘さんどうしているかな。
また、会いたい
近頃、やけにお節介になった電気屋は
そう思う。
エシュコル
一方的な愛
http://hswofach-wtl.jugem.jp/
交わりなどこそ無いものの、知っている人が何かしらキリスト教を知っている事を、驚く事がある。しかしそれもその人の選択であり、執り成しは出来ても主に委ねるしかない事を覚えるのであるから、多少なりとも淋しいものです。
しかしあくまでも主権はその名の通り、主に権利、権威があるのですから、主に期待をせざるを得ませんね。
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