石ころ

イスラエルの町とソドムとゴモラ(マタイ10章)

 

 だれかがあなたがたを受け入れず、あなたがたのことばに耳を傾けないなら、その家や町を出て行くときに足のちりを払い落としなさい。
まことに、あなたがたに言います。さばきの日には、ソドムとゴモラの地のほうが、その町よりもさばきに耐えやすいのです。(14~15)

 

イエスはイスラエルの家の残された羊たちのところに十二弟子をつかわされたが、イスラエルはイエスを神のキリストとは信じなかったのだ。イエスはすべてを知っておられたが、使徒たちを家々に遣わされたことは、救われる人を求めておられたのである。

 

ソドムとゴモラという悪行の町、命からがらロトが逃げ延びた滅びの町と比べられていることを不思議に思った。しかも、そのほうがマシと言われたことが引っかかった。イスラエルの人々が彼ら以上に酷いこととは何だろうと・・。

 

 今日、創世記を読んでいてソドムとゴモラの町と、このイスラエルの町の違いに気づいた。ソドムとゴモラにはアブラハムの執り成しの祈りがあり、さばきの余地が準備されていた。

 

もしかすると、五十人の正しい者に五人不足しているかもしれません。その五人のために、あなたは町のすべてを滅ぼされるのでしょうか。」主は言われた。「いや、滅ぼしはしない。もし、そこに四十五人を見つけたら。」(創世記18:28)

 

アブラハムはソドムとゴモラのために正しい人が十人になるまで、何度も執り成している。結局十人さえも成らず滅ぼされたけれど、悔い改めるための間があったのだ。

 

しかし、神にいのちをもって執り成す方、キリストを拒否するイスラエルの家や町には、もう救いの余地は残っておらず、神のさばきは一瞬であり猶予のないものなのであろう。

 

ただ、彼らの背きの罪のためにも十字架に掛かってくださったキリストは彼らを惜しんで、みことばを喜んで受け入れる一人ひとりを、家々に探しておられるのだ。
そのために十二弟子が遣わされイエス・キリストが生ける神であることを、もろもろもわざをもって見せて下さったのである。

 

わたしが父のうちにいて、父がわたしのうちにおられると、わたしが言うのを信じなさい。信じられないのなら、わざのゆえに信じなさい。(ヨハネ14:11)

 

イエスを見てはいないけれど、生けるいのちの主であることを私たちが信じていることは、何という驚くべきことであろう。何千年後に、偶像あふれる異邦の地に在って・・、これこそ私たちが受けた最大の神の奇跡である。


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