神のご用をするときに、愛する者を弱さのうちに置いてくださる。それは、最も人気の無いたまものだけれど最強の備えである。
肉性は強さを求めることは出来るが、弱さを求めることは出来ない。神に打たれても倒れず、砕こうとされても固まっている。
触れられれば砕かれ、御前にひれ伏す恵みは、何度でも新しく造り変えてくださる、陶器師の恵みである。
その時はあらゆる問題も、サタンの罠も、神が完全であるように完全とされるための材料となる。
そこですべてを益としてくださる神を仰ぎ見て、深い感謝にあふれて礼拝するのである。
そのように神の勝利が現わされた時、誰もが人ではなく神を見上げて、御名をほめたたえるようになる。
何よりもキリスト者の勝利は、戦いの時だけでは無く、寝ても覚めても変わることのない、神の平安を知ることである。
しかし主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである」と言われました。ですから私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。(Ⅱコリント12:9)
このようなパウロの弱さは、教会を迫害していた頃には持っていなかったろう。その時彼はほぼ万能であったから・・。
彼はイエスに倒されて、盲目であることを教えられた。それゆえ、積み重ねて来た箔を塵芥として脱ぎ捨てたのだ。
霊の目がはっきり見える肉の弱さにより、彼のうちに完全に働く神の力を得て、みこころを行ったのである。