石ころ

わたしについて来なさい(マタイ9章)

 

イエスはそこから進んで行き、マタイという人が収税所に座っているのを見て、「わたしについて来なさい」と言われた。すると、彼は立ち上がってイエスに従った。(9)

 

マタイの聖さは、名を呼ばれた時自分自身を見ずにイエス・キリストを仰ぎ見て、罪ある生活の場から立ち上がりすぐに従ったことである。それはイエスへの信頼によることであるから。

主に呼ばれたなら、ありのままの自分自身をお委ねして、みことばに聞き従う。その時、主はすべての必要を満たして神のものとしてくださる。

 

だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。(Ⅱコリント5:17)

 

キリストに自分自身を差し出す時、すべての罪をあがなわれて、水と御霊のバプテスマによる古い人の死を経て、神の家族の聖いいのちをたまわり、まったく新しく生まれさせてくださる。

 

ニコデモはイエスに言った。「人は、老いていながら、どうやって生まれることができますか。もう一度、母の胎に入って生まれることなどできるでしょうか。」
イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに言います。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることはできません。(ヨハネ3:4~5)

 

パリサイ人たちはキリストのわざを見ても、みことばを聞いても悟ることはなく、神の救いを経験することはなかった。それは自分たちの言い伝えを、みことばの上に置いてイエスを量り続けたからである。

 

イエスが家の中で食事の席に着いておられたとき、見よ、取税人たちや罪人たちが大勢来て、イエスや弟子たちとともに食卓に着いていた。
これを見たパリサイ人たちは弟子たちに、「なぜあなたがたの先生は、取税人たちや罪人たちと一緒に食事をするのですか」と言った。(10~11)

 

罪人と交わりの中で人をきよめることが出来るのは、イエス・キリストだけである。人にある過去、現在、未来の罪のすべてを、罪の無い御体に負って、十字架でご自身の命と引き換えにして、罪から買い戻されたからである。
それゆえ、この事実を信じる者は誰でも、恵みによって神の御前に聖とされ義とされるのである。

 

イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人です。
『わたしが喜びとするのは真実の愛。いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためです。」(12~13)

 

人は清く生きたいと願っても、愛したいと思っていても、罪と関わるまいと決心しても、罪に侵されていて、それらを全うする力がないのだ。キリストはそのような罪の真ん中に来てくださり、その弱さをも愛して、十字架の血潮に洗って聖くし、神との平和の中に置いて安らぎを与えてくださった。

 

しかし、他人の罪を曝していけにえとし、自分の正しさを主張するなら、その人はキリストのあがないを必要としなかったので、罪は残って滅びに裁かれる。キリストによる罪の癒しを受けなかったからである。

 

それから、ヨハネの弟子たちがイエスのところに来て、「私たちとパリサイ人はたびたび断食をしているのに、なぜあなたの弟子たちは断食をしないのですか」と言った。
イエスは彼らに言われた。「花婿に付き添う友人たちは、花婿が一緒にいる間、悲しむことができるでしょうか。しかし、彼らから花婿が取り去られる日が来ます。そのときには断食をします。(14~15)

 

イエス・キリストだけを望みとした人々は、キリストを喜んで神をほめたたえ、キリストの食卓に着いて、真のいのちを養ってくださるみことばに聴き入る。その時、彼らはイエスに友と呼ばれ、神に造られたことの感謝と喜びを始めて味わうのである。

 

彼らがイエスに仕えるのではなく、イエスが彼らに仕えていてくださった。彼らが生まれたばかりの乳飲み子だったからである。乳飲み子が断食することはなく、彼らはただ喜びの中に在る。

イエスが十字架の死を経て天に昇られた後に、助け主なる聖霊に満たされて成長し、断食をするようにして、すべてを捧げてみこころを行うようになるのだ。

 

だれも、真新しい布切れで古い衣に継ぎを当てたりはしません。そんな継ぎ切れは衣を引き裂き、破れがもっとひどくなるからです。
また、人は新しいぶどう酒を古い皮袋に入れたりはしません。そんなことをすれば皮袋は裂け、ぶどう酒が流れ出て、皮袋もだめになります。新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れます。そうすれば両方とも保てます。」(16~17)

 

キリストによって新しく生まれたいのちは、聖霊に満たされて働くようになる。それは頑固な古い革袋を引き裂くように、人の言い伝えを暴露して、互いを縛っていた罪定めの縄を解き、共にみことばに従順して主に仕えるようになるのだ。

「その人は地を治める時も強過ぎず、正し過ぎることもなく、数に頼まず、主だけを頼みとしている。」


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