ヤコブは立って、彼の子たち、妻たちをらくだに乗せ、
また、すべての家畜と、彼が得たすべての財産、彼がパダン・アラムで自分のものとした家畜を連れて、カナンの地にいる父イサクのところへ向かった。
そのとき、ラバンは自分の羊の毛を刈りに出ていた。ラケルは、父が所有しているテラフィムを盗み出した。(17~19)
すべては主が備えてくださったことであるが、妻ラケルは父の家の偶像を離さなかった。
ほとんどの場合は、イエスさまを信じる信仰生活は一人で始まる。
パウロとシラスの言葉に即座に従って、家族ぐるみで救われた看守は本当に幸せ者である。私はこのみことばを何十年も握りしめている。
二人は言った。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」(使徒16:31)
それまでの生き方をきっぱりと向きを変えて、パウロのように主に従って生きたいと願う時、キリストを未だ知らぬ家族はその足枷となる。
家族の平和と、みことばの約束の間を行き来しながら、ただ主に信頼する祈りに身を避けて、思い通りにはならない細い道のりを、一人で家族を負って前進するような日々がある。
時にはどうしても譲れずに波風の立つ事もあり、信じたばかりの不器用な信仰によって、家族を傷つけたことを悲しみつつ祈ることもある。
しかし、神は今も生きておられることを体験する日が来る。ご真実なみことばに堅く留まるうちに、いつしか家族に信仰が芽生えているのだ。
それは私が説得したのでもなく、まして教え導いたのでもない。ただ、キリストを愛して深く感謝をしているだけであるが・・。
夜昼、寝たり起きたりしているうちに種は芽を出して育ちますが、どのようにしてそうなるのか、その人は知りません。(マルコ4:27)
「お祈りしょうか」ある日すっと出た言葉に「ああ」と応えて夫は一緒に座った。とても自然に・・まるで昔からそうしていたかのようだった。
それから数年かかって、芽生えた信仰は成長してある日教会に入って来た。また、数年後には「洗礼を受ける」と言った。彼も生ける神のことばをゆっくりではあるが経験していたのだ。
「あなたがご自分の神々をだれかのところで見つけたら、私はその者を生かしておきません。私のところに何があるか、私たちの一族の前で、ご自分で調べてください。そして持って行ってください。」ヤコブは、ラケルが盗んだことを知らなかったのである。(31)
ラケルは偶像を盗み出したことで、ヤコブは危険な約束をしたが、神はラケルが偶像を隠したことを許し、ヤコブの危機を免れさせてくださった。
人はいつも不完全だけれど、神のご計画は完全であり、約束のみことばは信じる者のいのちの砦である。