それで、今朝はどうしようかとグズグズしている間に日が昇り、洗濯物を干した後で暑いことは覚悟の上と、帽子は嫌いなんだけれどかぶって家を出る。一足毎にズキンと痛む。でも、筋肉痛って私の浅い経験だけれど、使い通した方が早く治るように思うから、がまんがまんで乗り越えるしかないと自分に言い聞かせる。歩くとき何でもない坂道でも、走るとかなりきついことを体験している。
歩いたり走ったりを繰り返しながら、暑い日差しをなるべく避けて木陰を選んで進む。「なんでこんなことをするのだろう?」と考える間を与えないようにしてひたすら前へ。
だって、もし私は自分にこの問答を始めたら説得することはできない。「もう少し痩せないとみっともない」なんて言っても、「なにを今更、第一痩せることで美しくなるとは限らない。皮がたるんでもっとみっともないさ」と言い返すだろうし、体は聖霊の宮だから健康を維持する責任があるといっても、「痩せたら健康とは限らない。私の友は細かったのにもう居ない。」というだろう。
このことが結構きつい。息子が細いのにカロリー計算なんかしていると「止めろ」といってしまう。あまり細い女(ひと)を見ると私は不安になってしまう。華奢な嫁さんに不安を感じないで居られるのは、彼女が結構喜んで料理を食べてくれるから。頑張っているのかな?
唯一説得力があるのは、単純に「自分の体を、自由に動かせなくなるのは困るよ」ということ。このことが今の原動力。
でも本当は、この景色は魅力的だし、家でじっとくすぶっているよりは汗を流す方が気持ちがいいという事実。
ゆるいカーブの折り返し地点を向こうに見たとき、道ばたに野菜が置かれているのが見えた。無人の販売所が出来たのかと思い目を凝らすと、どうやらその大きさから冬瓜らしい。「冬瓜なら欲しい。でもお金を持っていないなぁ」そんなことを思いつつ近づいてみると、お金を入れる入れ物がない。
盛り上げて置いた冬瓜の前にボール紙が立ててあり、「一度食べてみてください。冷たくしたらおいしいです。無料。きよばあちゃん」と書かれていた。
大喜びで一番前の冬瓜を一個抱え、一礼して頂いてきた。突き出た腹の上に乗せるように冬瓜を抱えて歩く。もう、ウオーキングでもジョギングでもない。蟻のごとき運び屋。欲と二人連れで大汗を流しながら頑張る。帰って計ったら4キロもあったから、そりゃ重いはず。これが本当の「腹に一物」なんてひとり笑っている間に、ふと気が付いたら足の筋肉痛をすっかり忘れていた。苦痛を取り除くには、違う苦しみを与えることだった。今はひたすら重さに耐えている。
家に着いてすぐに4分の1に割り、ワタと種を取り除いて、うっすら翡翠色を残してきちんと皮を剥き、大きい目のサイコロに切って煮干しを入れ煮物にする。何か美味い物を添えたいけれど、それは後で買ってこよう。取りあえず煮て置いて味を含ませ、今夜のおかずに冷やしておこう。
また、もう一品は細かく切って汁物にする。これが私の好物。夏の体にとても優しく適当に体を冷やし利尿作用もある。半分は冷凍にしておこう。神様はちゃんと夏には体を冷やし、冬には体を温めるものを準備してくださっている。なんと細やかな備えだろうとその優しさに感動しつつ、残りは明日のお楽しみ揚げ煮にしようかなぁ・・。
調理してみるとこれが早く煮える、新鮮なんだろう。とても嬉しい。だって新鮮な冬瓜を買うことはなかなか難しい。何しろマイナーな野菜で、スーパーの棚の隅で色が変わっていたりする。野菜は例外もあるが、新鮮なうちに調理することが大切。冬瓜とは冬まで保つ瓜という意味らしいけれど煮え方は違う。
作ってくださった方に報告したくなった。「美味しかったよ!ありがとう」って、明日はひとことお礼の手紙を冬瓜の下に置いておこう。でも、もうすっかりなくなっているかなぁ。
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