私は律法による自分の義ではなく、キリストを信じることによる義、すなわち、信仰に基づいて神から与えられる義を持つのです。(ピリピ3:9)新改訳2017
神から与えられる「義を持つ」と言い切ることが、キリスト者の拠って立つ所であり、それはキリストの十字架を無にしない行為である。このことがあやふやなら、その不信仰のゆえに人の顔色を伺い、人の評価に拠って生きるようになるのだ。
そのようなサタンの揺さぶりに動揺するなら、どうして主に従順することができるだろう。
キリスト者が義とされているということは、人の目に分かり易い、割礼という印に拠ることではない。
人目にはつかない聖霊に拠ることである。世に証しさせてくださるのは主であり、それはご用を果たす必要のためである。その時を日々みことばに聴きながら待てば良いことである。
みことばの約束を握っているなら、事を成してくださるのは主である。信仰に基づいて神から与えられる義によらず、自分自身を証しようとるすことは、今更、割礼を施すようなものである。
私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます。(ローマ8:16)