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石ころ

日曜礼拝

アダムの罪によって、私たちは生まれながらの罪人となり、罪から離れられなくなった。意識的にも無意識的にも罪を犯す。良いことをするためにさえ罪を犯す。それをsaltさん「腐った善」といわれたけれど・・。

何のために出かけて行って礼拝をするのか。このことをずっと考えていた。電車の中でも考えていた。
昔は何も考えずに、当然のごとくに日曜毎に教会に行き、献金をして、時に奉仕をして、メッセージを聞いて、「今日、私は主に従順して捧げた。これで良し!」と午後はすっきりとさわやかな気分で過ごしたものだった。

しかしあるときからそんな行為に臭いものを感じだした。まるで主と取引をしているような不純なものが澱んでいる・・。
「わたしに捧げたというのか。天の下にあるものは、みなわたしのものだ。」「アーメン」

では、では、私はどうすればよいのかと、ぐずぐずと何週間かを過ごし、今日はぐずぐずと電車に乗って、空っぽなままで炎天下を歩いて教会へ向かう。
賛美の時、急に胸がいっぱいになって悲しくなってしまった。私は今、此処に相応しくないのではないかとそんな風に思えて・・。


メッセージの要約を、帰りの電車の中で何度も読み返していたとき、神は、なぜ人に罪を犯すことを容認されたのか。罪の中に生まれた罪人は、犬がワンと鳴くように罪を犯す者であるという。なぜ、こんなことが許されるのか・・

神のご計画とは・・と考えていたとき、イエスさまの十字架ではないかと、御子がいのちをもって買い取って下さり、新しく生まれさせて下さった。
新しく生まれた者は、救い主の御子を知り御父を知る。そこで初めて愛を知る。
そして、造り主に応答することが出来る者となった。
これこそ、人は神の息を吹き込まれ、神のかたちに造られたということの完全な完成なのだ。これこそ神の栄光。

それは、何を捧げたとか、成功したとか、失敗をしたとか、そんな事とはまったく違うことで、新しい事実の中に居るというだけで主の栄光。
日曜礼拝はその応答のひとつのかたち。それだけのこと。
だってすでに、イエスさまのいのちを受けて生きることは、すべてが礼拝であり主への賛美となっているのだから。


「しかし今は、罪から解放されて神の奴隷となり、聖潔にいたる実を得たのです。その行き着くところは永遠のいのちです。」ローマ6:22

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コメント一覧

石ころ
いちごさん、ありがとうございます。

「キリスト・イエスによるあがないのゆえに価なしに義と認められるのです。」ローマ3:24
私は、自分の立ち位置を絶えず確認して居ないと、つまらないものを付け加えてしまいます。

暑苦しい私ですから、「石ころ」を涼しいと評価して下さって感謝です。
本当にとても暑い日が続いていますから、ご無理をなさいませんように、お体を大切になさって下さい。
イチゴ
「そこで初めて愛をしる・・
・・完全な完成なのだ」
アーメン

私たちの頭では なかなか理解できませんし
思いつかないことです
でもまだ 奥に深く いつか示されるのでしょうね

石ころさんのブログは 酷暑にあって 涼しい存在です
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