石ころ

あなたの信仰はどこにあるのか(ルカ8章)




道端のものとは、御言葉を聞くが、信じて救われることのないように、後から悪魔が来て、その心から御言葉を奪い去る人たちである。
石地のものとは、御言葉を聞くと喜んで受け入れるが、根がないので、しばらくは信じても、試練に遭うと身を引いてしまう人たちのことである。
そして、茨の中に落ちたのは、御言葉を聞くが、途中で人生の思い煩いや富や快楽に覆いふさがれて、実が熟するまでに至らない人たちである。


だから、どう聞くべきかに注意しなさい。持っている人は更に与えられ、持っていない人は持っていると思うものまでも取り上げられる。(ルカ8:11~14.18)

 聞いた人々はみな救いを「持っている」と思っていた。それぞれ何時の間に失っていたのだ。それらは日常に忍び込んでくるものであるから・・。
だから、「持っていない人が持っていると思っている」のである。「持っていると思っていた」その幻想がはっきりさせられることは恐ろしい。気付いた時には取り返しがつかないのである。

それは、油を切らせていた愚かな5人の乙女のようである。彼女たちは花婿の到着に準備が間に合わなくて、婚宴から閉め出されてしまった。(マタイ25章)
これらは聖書に書かれている事実であり、今私たちへの警告である。主の言葉を聞いた者はみな婚宴の祝福を味わうべきなのだ。

良い土地に落ちたのは、立派な善い心で御言葉を聞き、よく守り、忍耐して実を結ぶ人たちである。」
正しい、良い心でみことばを聞くと、それをしっかりと守り、良く耐えて、実を結ばせるのです。(ルカ8:15)新改訳


 イエス様にそっと触れて婦人病を癒された女は公の場で告白に導かれた。神の救いを燭台の上で輝かせるためである。
彼女はイエス様の言葉を正しく受け入れ、恥を耐えてそれを行い実を結ばせたのである。その時、「安心しなさい。あなたの信仰があなたを救った」とのみことばを頂いた。
入ってくる人に光が見えるように、みことばを聞くと燭台の上に置く(ルカ8:16)

 イエスが陸に上がられると、この町の者で、悪霊に取りつかれている男がやって来た。この男は長い間、衣服を身に着けず、家に住まないで墓場を住まいとしていた。(ルカ8:27)
 町の人は、狂った人が癒されて正気になりイエス様の足もとに座っているのを見た。豚を飼って豊かに暮らしていた人々は、悪霊が豚に移って全滅したことで暮らしがひっくり返された。
彼らはそのような力を持った救い主を恐れて、「出て行ってもらいたい」と願った。彼らには主のわざは邪魔であった。
人はいろんなことを願う。救い主を拒否することも願うし、みことばの変更も願う。その時主は静かに去って行かれる。

「彼らは見ていても見えず、聞いても悟らない」
のである。

墓場で悪霊の虜とされていた男には、癒されて自分の家に帰るように命じられた。「彼がしきりにお供を願った。」とあるが、彼が帰ることを恐れているのを主はご存じだったのだろう。
彼が恐れないで家に帰り、平安に暮らし、町中で自分の救いの証しをすることは、神の救いを燭台の上に置き輝かせることである。


 そこへ、ヤイロという人が来た。この人は会堂長であった。彼はイエスの足もとにひれ伏して、自分の家に来てくださるようにと願った。
十二歳ぐらいの一人娘がいたが、死にかけていたのである。イエスがそこに行かれる途中、群衆が周りに押し寄せて来た。(ルカ8:41~42)

途中で娘の死が伝えられたが、ヤイロはイエス様のおことばに留まって聞いていた。
「恐れることはない。ただ信じなさい。そうすれば、娘は救われる。」
「泣くな。死んだのではない。眠っているのだ。」
「娘よ、起きなさい」

すべてはイエス様のおことばのとおりになる。
真実は目で見ていることではなく、耳で聞いた噂でもなくみことばである。主の語られたことばはすべて事実と成るのだ。

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