石ころ

預言について(Ⅰテサロニケ5章)

 

御霊を消してはなりません。
預言をないがしろにしてはいけません。(19~20)


ずっと心にこのみことばがある。しかし、預言がないがしろにされ悪いことが現実になるのを見たなら、「もう、十分です。二度と関わりたくありません、」と思ってしまう。それは無力感であり、激しい気落ちでしかない。しかし・・みことばは目の前にある。


愛を追い求めなさい。また、御霊の賜物、特に預言することを熱心に求めなさい。(Ⅰコリント14:1)


預言は神の愛から出ている。私が経験した二度の預言は警告であった。「みことばがないから待って」であり「静まれ」であった。しかし、祝福の嵐のような中で、「間違っている」と言ってもだれが信じられよう・・。


主にうながされて、自分でも理解できないままに語った。誰にも理解できないことを・・、神の預言は人の思いも寄らないこと、その時は想像もできないことなのである。
預言をないがしろにしないためには、どれほどの謙遜が必要なことだろう・・。行け行けの激流の中で立ち止まるには、どれほどの信仰が必要であろうか・・。


また、語る者を人間的に評価してしまうことも理解出来る。たぶん私もそういう者だろうから・・。
私は、預言がその通りに成ったからと言って誰をも責められない。自分も結果など理解できず、知らされたことを口移しに語っただけなのだ。


だから、直後から「とんでもない間違ったことを言ってしまった」と恐れて悲しみ、息子まで「私の失敗」に巻き込んでしまった。
それが間違っていないことを知ったのは数年後である。また、預言の成就と知って嬉しくなることではなく、尚更気落ちすることだった。


「結局、無駄なのだ」と・・今もその思いがある。神の言葉を伝えても起こるべき事が起こるだけなら、苦痛だけが多くて収穫なんかない。
しかし、知らされたことばを伝えないことは、まさに、預言をないがしろにすることである。


キリスト者にそんな自由は無いのだ。それは御霊を消すことだから・・。
ただ、あの時もし教会が立ち止まって、ゆっくりと祈りの時を持つことができたらと、失ったものの大きさを惜しむ心は、キリストの思いであろう。


すべてのことを見分けて、ほんとうに良いものを堅く守りなさい。
悪はどんな悪でも避けなさい。(21~22)


キリスト者の最高の悪は、主の思いを知っていながらそれを無視することだろう・・。良いたまわりものを堅く守れと言われている。委ねられた1タラントを土に埋めてはならないのだ。


従順する信仰を、責任の軽くなる年寄りになるまで待ってくださった主に、黙って自らを捧げられるように呻く・・。
また、みことばを主に聴いた通りに、語ることは預言でもあると思っている。


あなたがたを召された方は真実ですから、きっとそのことをしてくださいます。
兄弟たち。私たちのためにも祈ってください。(24~25)


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