サラの生涯、サラが生きた年数は百二十七年であった。
サラはカナンの地のキルヤテ・アルバ、すなわちヘブロンで死んだ。アブラハムは来て、サラのために悼み悲しみ、泣いた。(1~2)
子の無かったサラは、神の御計画によってイサクを産み、神の栄光を現わして死んだ。
アブラハムは、今は寄留地であるカナンの地に世のルールに則って墓を購入した。
「私は、あなたがたのところに在住している寄留者ですが、あなたがたのところで私有の墓地を私に譲っていただきたい。そうすれば、死んだ者を私のところから移して、葬ることができます。」
ヒッタイト人たちはアブラハムに答えた。
「ご主人、私たちの言うことをお聞き入れください。あなたは、私たちの間にあって神のつかさです。私たちの最上の墓地に、亡くなった方を葬ってください。私たちの中にはだれ一人、亡くなった方を葬る墓地をあなたに差し出さない者はおりません。」(4~6)
その地は神がアブラハムに約束された地であって、子孫が受け継ぐ地である。その地に住むヒッタイト人は墓地を無料で提供すると申し出た時、アブラハムはそれは当然であるとは受け取らなかった。
アブラハムは、その土地の人々に礼をし、
その土地の人々の聞いているところで、エフロンに告げた。「もしあなたが許してくださるなら、私の言うことをお聞き入れください。畑地の価の銀をお支払いします。どうか私から受け取ってください。そうすれば、死んだ者をそこに葬ることができます。」(12~13)
ヒッタイト人は神の民ではなく、その申し出が歴史的に確かなとする根拠が無かったからである。アブラハムの力を恐れてのことなら、状況が変わればアブラハムの所有が覆ることもある。アブラハムは人々の目の前で言い値で墓の土地を購入し、墓の所有を明らかにした。
神の恵みはすべて無料である。献金は恵みに対する代価ではない。永遠のいのちの代価など誰も支払えないのだ。
献金は捧げても自分のものであり、すべて天に蓄えられてある。
十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て、わたしの家の食物とせよ。こうしてわたしを試してみよ。──万軍の主は言われる──わたしがあなたがたのために天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうか。(マラキ3:10)
どんなに多く捧げても誰に誇る必要もなく、多大な犠牲を払ったわけでもない。すべて天に積まれてあり、それを用いるのも自分である。
また世に在る間も、捧げた以上の利息を付けて繰り返し支払いを受けているのだ。あらゆる形の祝福で・・。
しかし、この世では代価を支払う必要がある。それによって、神がどんなに私たちによくしてくださっているかを証するためでもある。
この地上はイエスが創造されたものであり、イエスはすべての創造物の王であるが、この世の王に税金を治められ、世のものは世に返し、神のものである自身を神に捧げることを教えられた。
カイザルのものはカイザルに返しなさい。そして神のものは神に返しなさい。(マタイ22:21)
その後アブラハムは、マムレに面するマクペラの畑地の洞穴に、妻サラを葬った。マムレはヘブロンにあり、カナンの地にある。こうして、この畑地とその中にある洞穴は、ヒッタイト人たちの手から離れて、私有の墓地としてアブラハムの所有となった。(19~20)
こうしてサラを記念する地が後に残された。
神の子が世で不自由をしないための備えがある。平穏な日々にそっと天に蓄えた、二匹の魚と五つのパンのようなわずかな献金が、神の祝福によって、すべての必要を満たす備えとなり、神の子である身を世に証させてくださる。