アブラハムは若い者たちに、「おまえたちは、ろばと一緒に、ここに残っていなさい。私と息子はあそこに行き、礼拝をして、おまえたちのところに戻って来る」と言った。(5)
神を愛しているなら、命じられたみことばの通りに生きようとする。神を愛すると言いながら、従順の経験の無い礼拝は偶像礼拝のようだ。
アブラハムは全焼のささげ物のための薪を取り、それを息子イサクに背負わせ、火と刃物を手に取った。二人は一緒に進んで行った。(6)
その火は、ひとり子イサクを全焼のいけにえとするものであり、その刃物は息子を屠るためのものであった。
しかし神に信頼する時、その火は彼らの罪を焼き尽くし、刃物は彼らを祝福するみことばの剣となる。
イサクは父アブラハムに話しかけて言った。「お父さん。」彼は「何だ。わが子よ」と答えた。イサクは尋ねた。「火と薪はありますが、全焼のささげ物にする羊は、どこにいるのですか。」
アブラハムは答えた。「わが子よ、神ご自身が、全焼のささげ物の羊を備えてくださるのだ。」こうして二人は一緒に進んで行った。(7~8)
アブラハムの「わが子よ」という言葉に、彼の愛と慈しみが伺える。
今の私たちには、「神ご自身が捧げものの子羊となってくださるのだ。」と読めて心に沁みる。
神を恐れることとは、愛する子を薪の上に横たえることであり、父が降り下ろす刃を見ていることなのだ。
神がアブラハムにお告げになった場所に彼らが着いたとき、アブラハムは、そこに祭壇を築いて薪を並べた。そして息子イサクを縛り、彼を祭壇の上の薪の上に載せた。
アブラハムは手を伸ばして刃物を取り、息子を屠ろうとした。(9~10)
イサクは青年である。アブラハムに縛られて薪の上に置かれることに同意していなければ、このことを成し得ない。彼は父を通して聴いた神の備えを信じたのだ。
信仰は言葉数ではなく費やされた時間にもよらない。このような信仰は、神が始めに選ばれた者の、神の選びに対する応答である。
あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。(ヨハネ15:16)
なぜキリストを信じることが出来たのかと不思議に思う。それは初めからの神のプレゼントであったのだ。
本当にキリスト信仰はすべてがプレゼントであり、私たちが何か良いことをしたとすれば、それはただ一つ、神のプレゼントを受け取って「キリストを知る」という応答をしたことである。
そのとき、主の使いが天から彼に呼びかけられた。「アブラハム、アブラハム。」彼は答えた。「はい、ここにおります。」
御使いは言われた。「その子に手を下してはならない。その子に何もしてはならない。今わたしは、あなたが神を恐れていることがよく分かった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しむことがなかった。」
アブラハムが目を上げて見ると、見よ、一匹の雄羊が角を藪に引っかけていた。アブラハムは行って、その雄羊を取り、それを自分の息子の代わりに、全焼のささげ物として献げた。
アブラハムは、その場所の名をアドナイ・イルエと呼んだ。今日も、「主の山には備えがある」と言われている。(11~14)
キリストは御父のことばに完全に従順された。すべてを創造された神の栄光を捨てて、無力な赤子として世に下ってくださった。それも、無実の罪によって十字架刑に処せられるために・・。
主の使いは再び天からアブラハムを呼んで、
こう言われた。「わたしは自分にかけて誓う──主のことば──。あなたがこれを行い、自分の子、自分のひとり子を惜しまなかったので、
確かにわたしは、あなたを大いに祝福し、あなたの子孫を、空の星、海辺の砂のように大いに増やす。あなたの子孫は敵の門を勝ち取る。
あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる。あなたが、わたしの声に聞き従ったからである。」(15~18)
「自分のひとり子を惜しまなかった」このことを、主はどれほどに評価されることだろう。その痛みを一番ご存じの父なる神である。
私たちがみことばに従順して、愛する者を捧げるために主の山に登る時、自分自身を、家族を、また多くの人々を、永遠まで生かす主の祝福を見るようになる。