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石ころ

種は腐らない③

 ヨハネの福音書を初めから一緒に読もうと準備をして出かける。お盆で一週は飛んだけれど、続けてみことばを学び合う時が主によって守られている。何時行っても変わることなく嬉しそうに迎えてくださることが感謝。

ヨハネ1:1「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった」
創世記1:1「初めに、神が天と地を創造した。」
此処を一番はじめに読んだのは、やはり私は自分好きな所から入っているってこと。
イエスさまは神であり、天地を創造された方であることをお話しする。

1:5光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。
イエスさまが、永遠の滅びという死を十字架において打ち破り、信じるものに永遠のいのちをくださること、また、死後の裁きのことなどもお話しすることができた。

1:12しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。

イエス・キリストを信じることによってのみ、神の子どもとされるということ。神の子どもの特権と共に、イエスを信じないということが人の最も重い罪であるという事をお話しして、自分の罪を身代わりに負ってくださる方を信じないのだから、結果として罪は残り、聖い神様に赦される唯一の道が閉ざされるとお話しすると、真剣にうなずいて聞いてくださっていた。

 この前の学びの時に「私ね、『イエスさま、私は何もそんなに悪いことはしていません。どうか分かってください。』って祈ったけどちょっとへんやなあ」と言われて大笑いをしたことがあった。ご自分で「おかしい祈りだ」と気づかれたことに主に感謝を覚えた。今日は私たちの罪意識と神様の聖さの違い、罪についても深く話し合うことが出来た。けれどもこのことが明確になるのは聖霊によるのだから主にお任せをして待とう。

 驚いたのは、もう10年も前に開いていた集会に行きたいと思って居られたとのこと。ああ、種は生きて時を待っていたのだと感動した。あのときでなくて良かった。主の時はぴったり今であると私は知った。今だから私は自分で伝えることが出来る。前から漠然とこのことの必要を感じていたけれど人を恐れてできなかった。人の与えた資格や権威を聖霊のうながしよりも第一に置いていたから。

 ご主人は機嫌良く迎えてくださるけれど、ちょっと不安と抵抗を感じて居られることが分かっていた。今日も部屋に入ってこられて「先祖がちゃんと守っていてくれてはるんや」とひとこと言われた。その時、なぜか私にはちっとも恐れがなくて「では、お祈りしましょうか」とお誘いすると、スッとご主人も側に来られて椅子に座られ手を組まれた。

お宅が聖書の学びのために開かれたことをイエスさまに感謝をして、ご家族への祝福をお祈りをした。不思議なことにご主人が真面目に「アーメン」と言われた。それこそこの前の奥さんのときのようにご主人が「アーメン」の意味を知って居られるのかどうかは分からないけれど、祈っている間ずっと私は聖霊の静かな臨在を感じることが出来た。

確かに私にはな~んにもない。ただ、主が命じられるままに、いやちょっとしぶしぶながら従っているだけ。しかし、主は本当に人手不足なんだろう。こんな動きの鈍い、何の良いものもない者を慈しんで用いてくださる。だから、私はすべてをみこころのままにお任せして目の前に置かれたことをしよう。

 
「この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。」(ヨハネ1:13)

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