キリストに救われたこの体を持って、偶像の期待を込められた薬を飲むことは、一体何のあかしをすることになるのだろう・・・と考えたから。偶像に捧げられた肉を食べることで、信仰を問われることはないと知っているけれど、偶像に捧げられた肉を食べると元気になるなどと言われているなら、私には口に出来ないものとなる。私は生きるも死ぬも主のためであるはず。
しかし、その薬を捨てたと知った主人は、その時、私の頑なな信仰を激しく怒った。まだイエスさまを知らない主人だったから、薬草に期待してもいたし、高価な薬をわざわざ買ってきてくださった親切をないがしろにする私の信仰というものに対して、受け入れがたい不信感を持ったのだと思う。
その時は、私のしたことが逆のあかしとなったように見えて、主人との間にできた溝を寂しく感じた期間があったけれども、今、主人がイエスさまだけですべてが間に合っていることを実感し、他の何ものにも頼る必要がないことが、当たり前みたいな日々があるのは、主がそれらすべてのことを益として下さったからだと思う。
連休中に息子とローマ14章を読みながらそんな事を話した。
「でも、本当にあのときの私の心に、偶像を恐れる心がちっともなかったのか、それが問題だけど・・・。イエスさまによってすでに勝利している私たちに対して、何の力もないものを恐れるのは違うから。それに本当に親切で持ってきてくださっているのに、あれで良かったのかとも思っているよ。」
息子が「信仰から出ていないことはみな罪です。と書いてあるね。これがすべての答えだね。」と言った。
「アーメン」
「私にとっては、生きることはキリスト、死ぬこともまた益です。しかし、もしこの肉体のいのちが続くとしたら、私の働きが豊かな実を結ぶことになるので、どちらを選んだらよいのか、私にはわかりません。私は、その二つのものの間に板ばさみとなっています。私の願いは、世を去ってキリストとともにいることです。実はそのほうが、はるかにまさっています。」(ピリピ1:21~23)
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