石ころ

モーセの執り成しによって生かされた40年 ④(民数記14章)

 

しかし、おまえたちはこの荒野に屍をさらす。
おまえたちの子どもは、この荒野で四十年の間羊を飼う者となり、おまえたちがみな、屍となるまで、おまえたちの背信の責めを負わなければならない。(32~33)

 

「罰すべき者を必ず罰し、父の咎を子に報い、三代、四代に及ぼす」この運命を、主は子らを負わせず、その子孫を祝福された。
「親の因果が子に報い」は愛の神のみこころではない。子らを母の胎で組み立ててくださったのは神である。すべての子は神の作品であり、神の愛の対照なのである。

 

此処にある神の憐みと忍耐を知らなければならない。主は不信仰には義をもって裁きつつ、イスラエルの民に約束の地を与えるために、彼らの子孫を荒野で養い育てられる。

 

今は、キリストのあがないによって、親の咎どころか、本人の過去、現在、未来の罪でさえも神は覚えておられない。すべてキリストを信じる者の罪科は、十字架で完了してくださったゆえである。

 

それゆえ世の嵐に振り回されても、試練を通る時も、主が共にいて下さるならすべてが益としてくださる。
失敗や、不信仰から間違ってしまうことは、アブラハムにもモーセにもダビデにもある。

誰も完全な信仰は持っておらず、みことばを読み間違ってしまうこともある。すべてのマイナスな事を通っても神の忍耐によって、主に信頼するべきことを躾けられて行く。

時に鞭を与え、刈り込みをされるのは、御国を継がせる熱心による御父の愛である。

 

わたしの枝で実を結ばないものはすべて、父がそれを取り除き、実を結ぶものはすべて、もっと多く実を結ぶように、刈り込みをなさいます。(ヨハネ15:2)

 

何しろ「これはわたしの愛する子」といわれた御子を、たまわるほどに愛されているのである。私たちの悔い改めは、主を、みことばを慕い求める愛となって現れる。

 

おまえたちが、あの地を偵察した日数は四十日であった。その一日を一年と数えて、四十年の間おまえたちは自分の咎を負わなければならない。こうして、わたしへの反抗が何であるかを思い知ることになる。(34)

 

天地創造の神への反抗を、そのままに見過ごすならその民は全滅する。彼らは神を離れては、何も出来ないからである。彼らはわきまえも無く彷徨う羊であり、時に獣の餌食となって荒野で滅びる。

神は憐みをもって40年後に、子らを約束の地に導き入れる時を備えて下さったのだ。

 

主であるこのわたしが言う。一つになってわたしに逆らったこの悪い会衆のすべてに対して、わたしは必ずこうする。この荒野で彼らは死に絶える。(35)

 

彼らは一つになって逆らった。多数決が時には大きな間違いをもたらせる。肉的な大声は、カレブたちの霊の導きをかき消してしまった。それは静まって聴く細い声であり、決して大勢の声ではないのだ。

 

あなたが右に行くにも左に行くにも、うしろから「これが道だ。これに歩め」と言うことばを、あなたの耳は聞く。(イザヤ30:21)

 

「また、モーセがあの地の偵察のために遣わした者で、帰って来て、その地について悪く言いふらし、全会衆にモーセに対する不平を言わせた者たちもだ。」
こうして、その地を悪く言いふらした者たちは、主の前に疫病で死んだ。(36~37)

 

何を語るかによって未来が決まる。不信仰の中で、怯える言葉をその唇に置くものは何か。ちょっと考えるべきである。「それは間違っている」と誰も言わないなら、みな死ぬことになる。

 

しかし、あの地を偵察しに行った者のうち、ヌンの子ヨシュアと、エフンネの子カレブは生き残った。
モーセがこれらのことばを、すべてのイスラエルの子らに告げると、民は嘆き悲しんだ。(38~39)

 

彼らは何を嘆き何を悲しんだのか、彼らの行動がそれを現わしている。

彼らは神の怒りを恐れて悲しみ、自分たちの不信仰を嘆いたのではなく、ただ、失敗の結果の死を嘆いたのであろう。

 

翌朝早く、彼らは山地の峰の方に上って行こうとして言った。「われわれはここにいるが、とにかく主が言われた場所へ上って行ってみよう。われわれは罪を犯してしまったのだ。」(40)

 

彼らは罪を悔いて改めようとしたのである。「初めに言われた通りにしていれば良かった。これからそれをやって、生き延びよう」このちぐはぐは、罪がわかっていないからである。彼らは主が示されたみことばに従順するべきであった。

 

モーセは言った。「あなたがたはいったいなぜ、主の命令を破ろうとするのか。それは成功しない。
上って行ってはならない。主があなたがたのうちにおられないのだから。あなたがたは敵に打ち負かされてはならない。(41~42)

 

何をするかではなく、聴いた言葉に従うことである。それも、日々に聴いた言葉による。昨日の言葉ではなく、今日新しく聴いた言葉である。なぜなら、信仰は一歩ずつ主に導かれて歩むものであるから。

 

主は約束の地というゴールを示される。ゴールは分かっていても、今日行く道はみことばにより頼んで一歩ずつ、主とともに歩むべき行程を進むのである。人は誰も一寸先のことを知らないからである。

 

わたしは心が柔和でへりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば、たましいに安らぎを得ます。
わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」(マタイ11:29~30)

 

「そこには、あなたがたの前にアマレク人とカナン人がいて、あなたがたは剣で倒される。あなたがたが主に背いたから、主はあなたがたとともにはおられない。」(43)

 

みことばの約束がない時は、静まって待つべきである。すべてのことには時がある。昨日聞いて無視した言葉を今日行おうとしても、もう、そこには主はおられない。

 

しかし、彼らはかまわずに山地の峰の方に上って行った。主の契約の箱とモーセは、宿営の中から動かなかった。
山地に住んでいたアマレク人とカナン人は、下って来て彼らを討ち、ホルマまで彼らを追い散らした。(44~45)

 

主の民がみことばに聴き従わずに失敗する時、いつも御名を笑いものにすることになる。これほど悲しいことは無い。


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