石ころ

黙示録が見えない




目の不自由な人がイエスさまの癒しを受けた。
イエスさまは「何か見えるか」と問われた。彼は「人が見えます。」と答えたが、その見え方は不完全だった。
イエスさまはもう一度彼の両眼に手を当てられて、彼ははっきり見えるようになった。

この聖書記事が今日浮かんできた。
私も最近知りたいみことばがはっきり見えない状態で、もう一度主に触れられるのを待っている。
聖書を読んでも、その内容が遠くにあってつかめない。いつものように主に尋ねたけれど、まだ・・待っている。

YouTubeで丁寧に語られるメッセージに出会って聴いている。難しい箇所は文字興しのようにメモをして読み返しても、私にはどこかぼんやりとしている。
信仰書やプリントもあるがどうしてもピントが合わない。

分からないのは、私にとってまだ開かれる時ではないからだろうか・・。
ただ、「年寄りだから・・、努力が足りないから・・、学がないから教えられない」と主が言われるわけはない。

私の造り主が、私に対して力不足で教えられないなんてことはない。人のわざなら教わる人の力次第であるけれど、主なら一瞬に悟りを与えることも出来る。だから私の問題ではないはず・・。

いや、今はまだ道すがらなのだろうか・・シロアムの池に向かって歩いているのか・・、この道は何時まで続くのだろう・・。
歩いていれば自動的に近付いていることは事実だと思うけれど・・。

主はご真実であることを知っている。主はご自身を否むことができないお方なのだ。
そうして、私は「見えるようになることです」と願っているのだから・・、必ずその日のことをはっきりと見るようになる。

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コメント一覧

ムベ
電気屋さんコメント感謝します
本当に、そうなのですね。
母親に付きまとって「なんで・・なんで」って質問攻めにしているとき、
時には母は、直接そのことには触れないけれど、色々なお話しをしてくれます。

子どもはそれで大満足します。
一番求めているのは、自分だけを見てお話しをしてもらう時間であり、その声を聴いていたかったのですね。

待っている間も、一緒に歩いて語り続けてくださっているのですね。
電気屋
良き親は、子らの為に見せない方が良い事もある事を知っておられますからね、
その時が来たら、わかるようには、育ててくださっておりますので、平安でいられます。
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