石ころ

わたしの顔を見て生きていることはできない(出エジプト33章)

 

モーセは主に言った。「ご覧ください。あなたは私に『この民を連れ上れ』と言われます。しかし、だれを私と一緒に遣わすかを知らせてくださいません。しかも、あなたご自身が、『わたしは、あなたを名指して選び出した。あなたは特にわたしの心にかなっている』と言われました。
今、もしも私がみこころにかなっているのでしたら、どうかあなたの道を教えてください。そうすれば、私があなたを知ることができ、みこころにかなうようになれます。この国民があなたの民であることを心に留めてください。」(12~13)

 

モーセは、主の選びによって始まったことをもって、責任を持ってくださるようにと願った。それは、無条件の主の選びから始まったことを覚えてのことである。
「あなたが選ばれた私とあなたの民と共にいて、あなたのみこころを教えて歩ませてください。」という願いである。

 

キリスト者も何時も願う祈りであり、「初めに神が選び」というみことばに発した救いのゆえである。私たちが何か優れていたから、清くあったからなどという条件に始まった救いでは無く、神の一方的な憐みによることゆえに、真実な方に願い求め続けるのである。

 

主は言われた。 「わたしの臨在がともに行き、あなたを休ませる。 」
モーセは言った。「もしあなたのご臨在がともに行かないのなら、私たちをここから導き上らないでください。(14~15)

 

主が共に居られないイスラエルには何の力もない。その時は敵の笑いものである。神は一緒に居てモーセを休ませると言われた。まことに私たちが安息できるのも、主が共にいて下さる時である。

 

神がモーセの願いを聞き入れられたのは、愛しておられたからである。
キリスト者の願いを聞き入れてくださるのも、ひとえに神が愛だからであり、願いを聞いてくださらない時も愛のゆえである。

 

私とあなたの民がみこころにかなっていることは、いったい何によって知られるのでしょう。それは、あなたが私たちと一緒に行き、私とあなたの民が地上のすべての民と異なり、特別に扱われることによるのではないでしょうか。」(16)

 

みことばに拠って生きる時、日常的に神の特別を経験し続ける。それはキリスト者には特別なことではなく、世に染まらずに、時に世に逆らって、世で生きている事実にあり、それは絶え間ない守りなのである。

 

主はモーセに言われた。「あなたの言ったそのことも、わたしはしよう。あなたはわたしの心にかない、あなたを名指して選び出したのだから。」(17)

 

モーセが食い下がって願うのは神の民のリーダーだからである。この願いが神のみこころに叶っていることは、お交わりの中で彼はよく知っているからである。
主が、モーセの願いのすべてに応答しておられるのは、彼の悟りを喜んでおられるからである。

 

モーセは言った。「どうか、あなたの栄光を私に見せてください。」
主は言われた。「わたし自身、わたしのあらゆる良きものをあなたの前に通らせ、主の名であなたの前に宣言する。わたしは恵もうと思う者を恵み、あわれもうと思う者をあわれむ。」(18~19)

 

モーセも、イスラエルも主がご自身から愛してくださった者なのである。天地創造の神が愛の弱みのように、モーセに妥協してくださっている。

 

キリスト者も「あなたの栄光を私たち、私たちの近しい人々、私たちの置かれた所に見せてください。」と願い求め続ける者である。その願いはみこころに叶っており、それをみことばの従順に拠って、キリスト者が世に現わして行くのである。

 

創造主は愛する者を選ぶ権利がある。しかし神はすべての人を愛された。ただ、その愛に応答した者が恵みを受け、憐みを受けて神の栄光を現わすのである。

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。(ヨハネ3:16)

 

また言われた。「あなたはわたしの顔を見ることはできない。人はわたしを見て、なお生きていることはできないからである。」(20)

主はモーセは顔と顔を合わせて、友のように語ってくださったばかりである。此処で顔を見ると死ぬとは・・

 

また主は言われた。「見よ、わたしの傍らに一つの場所がある。あなたは岩の上に立て。
わたしの栄光が通り過ぎるときには、わたしはあなたを岩の裂け目に入れる。わたしが通り過ぎるまで、この手であなたをおおっておく。
わたしが手をのけると、あなたはわたしのうしろを見るが、わたしの顔は決して見られない。」(21~23)

 

この岩の裂け目に入れられるのは肉の体である。神が手で覆われるのは世に生きている目である。肉の目で神を見るとき死ぬのは、神の聖さに肉は耐えられないからである。

今、私たちはキリストのうちにあって、キリストを通して神を知る者である。キリストによって私たちの永遠のいのちが守られているのだ。

 

この肉の体が死ぬとき私たちは天に召され、キリストと同じ霊の体をたまわる。そのとき神の御顔を仰ぎ見るのだ。
そうして世のあらゆる悲しみや、傷による涙を拭って頂くのである。そのとき、魂の患いはすべて癒しきよめられて、天の御国に相応しい者と変えられるだろう。
「見よ、すべてが新しくなりました。」の完了である。


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