石ころ

主は顔と顔を合わせてモーセと語られた(出エジプト33章)

 

主は、御使いを遣わして彼らを約束の地に導くと言われた。彼らを殺さないために御使いを間に置かれたのである。

 

「乳と蜜の流れる地にあなたがたを行かせる。しかし、わたしは、あなたがたのただ中にあっては上らない。あなたがたはうなじを固くする民なので、わたしが途中であなたがたを絶ち滅ぼしてしまわないようにするためだ。」(3)

 

神は義の神であり愛の神である。その両立のためには一緒に居ないと言われた。それは神と人の間に隔てを置くことであった。それは至聖所の幕のように、神と人を隔てて罪ある人の命を守るためである。

 

民はこの悪い知らせを聞いて嘆き悲しみ、 一人も飾り物を身に着ける者はいなかった。

主はモーセに次のように命じておられた。「イスラエルの子らに言え。『あなたがたは、うなじを固くする民だ。一時でも、あなたがたのただ中にあって上って行こうものなら、わたしはあなたがたを絶ち滅ぼしてしまうだろう。今、飾り物を身から取り外しなさい。そうすれば、あなたがたのために何をするべきかを考えよう。』」

それでイスラエルの子らは、ホレブの山以後、自分の飾り物を外した。(4~6)

 

彼らが身に付けるべきは悔い改めの荒布であり、身を飾る祝いの衣装ではなかった。神の選びの民イスラエルに、神が共に居られないことはなんと恥じるべきことであろうか。その旅を守るものは何であろうか。

 

キリスト者の人生にキリストが共に居られないなら、ベールを被っても十字架のペンダントを付けようとも無意味であり、その飾りによって歴史の上に恥を曝すことになるのだ。

 

モーセはいつも天幕を取り、自分のためにこれを宿営の外の、宿営から離れたところに張り、そして、これを会見の天幕と呼んでいた。だれでも主に伺いを立てる者は、宿営の外にある会見の天幕に行くのを常としていた。(7)

 

宿営の外にある天幕が証するのは、宿営のうちに主がおられないことである。モーセがみこころに従ってしたことであった。

 

モーセがその天幕に入ると、雲の柱が降りて来て、天幕の入り口に立った。こうして主はモーセと語られた。
雲の柱が天幕の入り口に立つのを見ると、民はみな立ち上がって、それぞれ自分の天幕の入り口で伏し拝んだ。(9~10)

 

民は雲の柱を隔てて主を拝んだ。それは確かに民の守りためでもあった。彼らがうなじの強い民だからであり、彼らの心は直ぐに変わるからである。

 

私たちはキリストの霊によって神を礼拝している。霊の交わりによってキリストを信じ、生ける神のことばを従順によって経験して、キリストを知ることによって神を知るのである。十字架によって神と人を隔てる至聖所の幕が裂かれたからである。

 

主は、人が自分の友と語るように、顔と顔を合わせてモーセと語られた。モーセが宿営に帰るとき、彼の従者でヌンの子ヨシュアという若者が天幕から離れないでいた。(11)

 

とてもさりげなくヨシュアの従順が書かれてある。主に用いられるために必要なことは、絶えず主に近しくいることである。


神は霊であるから神を見るのは霊の目である。この時、モーセの霊の目は開かれて、神を見る交わりが許されていたのである。

 

キリスト者の霊は、キリストのあがないによって主を知るために開かれてあり、みことばを悟る目が開かれ、導きを聴き取る耳が開かれてある。
それは霊によることであり、肉ではないので明確な確信となって霊に吹き込まれるものであって、神の家族の親しい交わりのためである。


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