一年間の班長当番が無事に終わった。私は自分自身のことでは、もうこの歳なのであまり心配はしないけれど、こういう役割を負って心配事が頭から離れないことも経験した。
大概それは、間違いや失敗を恐れるためであった。それは私には、自分の信仰の弱さを見ることでもあった。
年齢を言い訳にして役を負っていなかったら、こんなにドキドキしたり、オロオロする自分のあり様を知らないままであり、弱さの中で主の備えを経験することもなかったろう。イエスさまと一緒なら何でもできることを、改めて教えていただいた。
ある時は、書類を見落としたままに自分で決定した掃除の時が、地域で決められていた月で大きな失敗から守られた。普通は集会所の裏に隠されている偶像が、障子を開け放たれてど~んと祭られていても、ただの誇りっぽい物としか見えず、その場の主の臨在は少しも変わらなかった。
新年会の当日は、カーテンを開けて唖然・・。庭には今年初めての雪が積もり、まだチラチラと降っていたから・・。ああ、どうしょう・・大丈夫かなぁ。と集会所までの細い危険な道を思って祈る。皆が無事に集まれますようにと・・。
私はご近所さんが声をかけてくださって、車に乗せてくださった。
また、お二人の方で道の雪かきをしてくださったことも分かった。問題が立ちはだかったようなときは、いつも神さまと人の優しさを見る時であると改めて覚えさせられた。
「恐れるな」と主はいわれているのに・・私はいつも恐れる。主を経験することよりも、何事も無い方を選んでしまう。
挨拶が一番の苦手で・・しどろもどろだった、だからこう仕事は嫌いなのだ。人前で滑らかに弁舌を振るう人を見るとすごいなぁ・・と、それだけで尊敬する。
ただ、「コロナ渦で無事に皆さまと新年を迎えられたことにほっとしています」と、心の中でいつも思っていたことを伝えられたことが嬉しかった。
新年会だから、今までは折詰でお酒を酌み交わし親睦を深める時となるが、今年は、円になることもなく、前に向けて椅子に掛けソーシャルデスタンスを守るように準備をしてくださった。マスクを外さないようにと、お茶も出さずに、折詰はお持ち帰りという愛想の無さに、苦情も無いのは住めば都のありがたさ。
人々と何事かを行う時は、頑張ってもひとりでは何もできないことを経験する。また、ひとりでする必要がないことも経験できた。助けられて働く楽さも久しぶりに経験できた。
助ける時は優しい気持ちになり、イエスさまの助けがあるように祈ることができるし、助けられた時は感謝しつつイエスさまの祝福を祈ることができた。
お顔は知っていてもほとんどお話をしたことのない方々との役員会で、私は枯れ木も山の賑わいと座っているだけであり、賛否を問われても確信はなかったけれど、それでも、ちょっと言葉を交わしたり、配り物を持って来てくださった時は、人と話す緊張感にも新鮮な刺激も受けて、ほとんど閉じこもりの私には2020年は格別な年だった。
「祈りにつながることはすべて良し」信仰の初めに聞いた言葉。誰に教わったのだろう・・。困った時はいつも思い出して祈りに引き込まれ、結果の如何に依らず安らぎを得た言葉である。