石ころ

心の貧しい者(電気屋さんのコメントから)

 

 今、電気屋さんにとても感謝しています。12月31日の記事をアップする時ちょっと躊躇しました。この記事によって注解書に依存する人が居られたらどうしょう・・と思ったからでした。
そのことも主にお委ねしてアップしたのですが、主は電気屋さんによって今回のチャンスを備えてくださいました。

 

心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。(マタイ5:1)
「自分の霊的な貧しさを知っている人」注解書にはこのようにあり、そのとき霊的な傲慢への警告として、2021年への備えと感動して受け取りました。

 

心に覚える霊的な貧しさは、父なる神との関係の飢えと思います。神さまの聖さと愛に飢え渇いて、その自分の貧しさに気づいた者には、神が天の御国に導き入れてくださる幸いだと・・。

 

 造り主なる神を知らない心は霊的に飢えることはなく、その貧しさとは無縁に命を消費し続けて消えて行くでしょう、それはとても不幸な恐ろしいことです。
その不幸は人だけではなく、いのちを与えるために十字架を通ってくださった、イエスさまにも悲しみをもたらせることです。

 

神はその求める者にすべてを、そう、愛する御子の命さえたまわる御方なのですから、求める者は求めた時にそれをたまわります。必要を備えてくださいます。

 

お交わりを求める者がみことばを開くたびに、主は聖霊を通して親しく語り続けてくださいます。だから主に信頼して、聴く訓練のためにちょっと忍耐して、時をお委ねして繰り返し繰り返し聴きます。はっきり聴きとれるまで・・。

 

主は一人ひとりに最もふさわしく接してくださいます。そのプロセスの中にある甘い味わいを、誰にも奪われないよう自分で聴きます。
それに、人の知識によって神を知ったように思うことはとても危険です。それは、心の飢えをサプリメントで誤魔化すようなものだからです。

 

 私が聖霊によってたまわる感動は、みことばからが最も多いので信仰生活にとても大切なのです。
霊の賛美にも異言の祈りにも、それはたまものを用いる従順によることであって、理解できない言葉に感動することは滅多にありません。

 

それゆえ、みことばが開かれる時の深い喜びは何ものにも代えがたくて、それを注解書から教わりたくないのです。焼きもち・・嫉妬かも知れません。
御父のみことばを他の人から教えられるなんて、私には大損です。個人的な交わりの中に語ってくださる感動を抜きにして、知識だけを教わることは味気ないものです。

 

聖書の知識は絶対に必要なのですが、知識だけなら、長年みことばのメッセージなどを聴き続けていると自然に入ってきますし、また、翻訳の問題も聖書全体や、行間がら調整する(聖霊の導きですが)ことが出来ると思っています。

 

もちろん、メッセージによって原語の意味を聞いて目が開かれたこと、感動したことも沢山あります。だから、メッセージを聴くことには、語ってくださる先生と共に御父を味わう楽しみを感じています。
神さまは一人ひとりにたまものを備えて、ご自身を紹介してくださいます。どれほど語り続けても、聴き続けても神さまを知り尽くすことはありませんから・・。

 

 神との関係に対する渇きが、ヨブ記に満ちていて私は深く共感しました。神がヨブに滔々と語られる箇所には心が震えます。

 

霊の渇きは神にほめられる喜びとか、責められる恐れとかには拠らず、教えるために神が近しく来て、時を割いてくださることが嬉しいのであり、みことばが私の霊に充満してくださることで平安を得るからです。

 

その時、神が注いでくださる言葉が、喜びであっても悲しみであっても、すべて満たされるままに驚喜します。お交わりくださる光栄に、もうこれ以上何も要らなくなり、どんな状況でもその喜びは変わらないからです。きっとヨブもそれほど嬉しかったろうと思ったのです。

 

 今回は注解書から主が教えてくださいました。その時、とても感動したのは、書かれている言葉の鋭さもあったのですが、何よりも聖霊の臨在を覚えるタイミングでした。
聖霊に拠ってみことばが導かれる時は、その絶対のタイミングによってわかります。このこともみことばに直接聴きたいと願う根拠です。

 

あなたがたのうちには、御子から受けた注ぎの油がとどまっているので、だれかに教えてもらう必要はありません。その注ぎの油が、すべてについてあなたがたに教えてくれます。それは真理であって偽りではありませんから、あなたがたは教えられたとおり、御子のうちにとどまりなさい。(Ⅰヨハネ2:27)

         


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コメント一覧

ムベ
電気屋さんコメントをありがとうございます。

本当に、主のなさることは完璧ですね。
それゆえ、誰でも自分を見る必要はないのだと思います。

放蕩息子から教えてくださって、心から「アーメン」と、
お交わりを楽しませていただきました。

彼が「飢えて死にそう」になって求めたのは、父の豊かさであり、
父の家にあるいのちのパンだったのですね。

何十年キリストのお恵みと憐みによる守りの中で、自分が
スーパーマンになったかのような、勘違いしてしまうのでしょうね。
それゆえ、自分の人生の失敗を陳列して生きることは、それによって
思い上がりから身を守る神の備えとも思います。

聖書に、使徒たちの失敗がそのまま書かれているのも、そのための
神の細やかな備えだと思います。
完全は聖霊によることであると・・主に身をお委ねします。

神は私たちの誤りは放置されず、信頼する者には、打ち叩いても教えて
くださると信じています。
それゆえに、おおらかにどんなことでも出来ると思います。

主にあるお交わりは、コロナの心配のない宴会のようです。
また、よろしくお願いいたします。
電気屋
「電気屋さんにとても感謝しています。」

その様に書いて頂き恐縮です。
ただ主の為さる事はいつも素晴らしいですね。

「霊的な貧しさは、父なる神との関係の飢え」

アーメンです。
この箇所を読ませて頂き放蕩息子のシーンを思い出しました。
豊かであった(と、思っていた)息子が自分の思うままにいきた先に待っていたのは

病死でも、事故死でも、戦死でもなく、「飢えて死(にそう)」
そう思うと飢え渇きは神の恵みとも感じますね。

今でも左程でも無いかも知れませんが、いつの頃からか
自分がひとかどのキリスト者だと傲慢にも腹の底では思っておりました。
知識や解きあかしや経験を誇っていました。

誇るべきは、「主」であり「自分の弱さ」であるのに

放蕩息子の希望は、まことのお父さんを知って(そこでは父の使用人でさえもっと豊かに暮らしている事など)
父のもとから遠く離れるだけを送ってきた彼が、180度向きをかえて(悔い改めですが)
父のもとに戻る事でした。

富、麗しさ、若さ、力等、この世の全ては古び失われていきます。
変わる事のない、失われる事のない希望が必要ですね。
またよろしくお願いいたします。
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