量がどうだとか・・味がどうだとか・・てんでに苦情を言われて、でもそのことは私が一番分かっているのでいよいよ落ち込む。この体調の悪さは誰にも見えないし、自分でも理解できないのだから。
さっさと食事の後かたづけをして・・その元気は怒りからだと思う。時に、怒りはエネルギーを生み出すから。「もう、切れた!」と、いつもは遠慮をしている一番風呂にさっさと入り、部屋の戸を締めて、暗い床で横になるとすぐに眠ってしまったらしい。
普通、土曜日は明日のために食事の段取りがあるのだけれど、すべてを投げ出して寝てしまった。
日曜日の朝、良く眠ったのだから気持ちよく起きられると思ったけれど、どっこいそうはいかなかった。体の状態は相変わらず最悪。一応起き出して朝食は作ったけれど、だるさと頭痛、寒気さえする状態。
それでも、材料は準備していたのでカレーを火にかけて、またゴロゴロ、ゴロゴロと床でのたうっている。血圧が低いことに付ける薬はない。計って見ると昨日と同じ。自分に「大丈夫、80台じゃないんだから」と言ってみても、体が首を横に振る。
主に、
「礼拝に行く元気を下さい、下さらなかったらこのままです。今、私は何も出来ません。それに礼拝に行かせてくださるなら、この状態を見ている家族からも、何も言われないようにもしてください。」と訴える。
主は、すぐに行く元気を下さった。主人は「大丈夫か。しかし、教会やなかったら絶対動かへんやろうな。」とひと言。「私もそう思う」心から、かつてなく素直に同意して出かける。
本当に主は完璧に備えて下さるとちょっとあきれる。単車に乗ってもふらつくこともなく、乗り換えの駅で小走りに階段を上り下りを繰り返しても大してだるくなく、そんなに息切れもしない。いつもの駅からも、暑くても元気に歩けた。まるで昨日からの不調が単なる気のせいだったみたい。
メッセージの間も集中することが出来たし、姉妹の娘さんがひとりで駅から歩いて、それも暑い中を迷いながらも来られたことが嬉しかった。長男がひとりで教会に来た日のことを思い出して・・。
ところが帰りの電車で、ひとつのことを思い巡らせているうちに、車内アナウンスで聞こえてきたのは、私が下りる次の駅名だった。つまり下りるべき駅はすでに過ぎていた。でも、思い巡らせていたことに対する答えを見出したのは、乗り越してからだったので、どうしても必要な時間だったと心はむしろ晴れやかだった。
家に着いたのは8時を過ぎていたけれど、苦情を言われることもなく乗り過ごしたことをみんなで笑った。体は完全に回復していた。
ダビデの恐れは、サウルではなく主の主権を犯してしまうことだった。そんなダビデを友のヨナタンは良く知っていたのだろう。主を畏れる中で結ばれる関係こそ麗しいキリストの香り。
主を通して知ること主がしてくださる。ダビデはいつも主を待っていた。私も主に信頼して待たなければならない。
「どうか父が、その栄光の豊かさに従い、御霊により、力をもって、あなたがたの内なる人を強くしてくださいますように。こうしてキリストが、あなたがたの信仰によって、あなたがたの心のうちに住んでいてくださいますように。」(エペソ3:16~17)
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