石ころ

火の試練(Ⅰペテロ4章)

 

愛する者たち。あなたがたを試みるためにあなたがたの間に燃えさかる火の試練を、何か思いがけないことが起こったかのように驚き怪しむことなく、
むしろ、キリストの苦しみにあずかれるのですから、喜んでいなさい。それは、キリストの栄光が現れるときにも、喜びおどる者となるためです。(12~13)


試練は信仰の祝福を隠し持っている。このことは「愛する者たち」に語られているのであり、それは神が愛する子の、成長を導く養育の中にあることである。
試練を乗り越えるためには、助け主である聖霊の導きによってみことばに留まること。それも人伝の知識によって読み飛ばさないで、本当に従順できるまで聴くことである。


神を愛しているから、みことばを知りたいと願うのであり、従うためには分かるまで教えを乞うはずであり、それが神とキリスト者の真剣な愛の交わりである。
主が求めて居られることはこのことであり、試練はこの交わりに導くための道具に過ぎない。


こうして、たまわったみことばの約束を確認し続ける時、確かにみことばが生ける神の言葉であること、神はご真実であることを見せてくださる。そこで私たちは心から神を賛美し、ほめたたえる者に成長させてくださるのだ


もしキリストの名のために非難を受けるなら、あなたがたは幸いです。なぜなら、栄光の御霊、すなわち神の御霊が、あなたがたの上にとどまってくださるからです。(14)



人の評価と神の評価は違うのである。人は上辺を見るが神は心を見られる。それも、キリストを愛する心を見られる。
その時、聖霊の臨在によって神の栄光を現してくださる。これはあらゆる罪や欠点を覆われて、助けの中に導かれる者にとっては、あり得ない光栄である。


あなたがたのうちのだれも、人殺し、盗人、悪を行う者、みだりに他人に干渉する者として苦しみを受けるようなことがあってはなりません。(15)


人を妬んだり憎むことは心の中で殺すことであり、羨んで欲しいと思うことは心の中で盗むこと、悪を思うことは心の中で行うことである。みだりに他人に干渉することは支配することであり、その結果、汚された心に苦しみを受けることを戒められている。


これらのことから私たちは、キリストの中に逃げ込むことで守られる。そう、その罪は戦うものではなく、聖い方に身を避けることで守られるのである。

神はわれらの避け所、また力。苦しむとき、そこにある助け。(詩編46:1)


しかし、キリスト者として苦しみを受けるのなら、恥じることはありません。かえって、この名のゆえに神をあがめなさい。(16)


世の汚れからの苦しみは、ただ避けるべきものであるけれど、信仰による苦しみは、キリストのあがないの御わざを思い起こす時となり、神をあがめる時となる。


なぜなら、さばきが神の家から始まる時が来ているからです。さばきが、まず私たちから始まるのだとしたら、神の福音に従わない人たちの終わりは、どうなることでしょう。
義人がかろうじて救われるのだとしたら、神を敬わない者や罪人たちは、いったいどうなるのでしょう。(17~18)



神の家に在る信仰の有り様が暴かれる時が来る。携挙に残されることさえあるのだ。義人がかろうじて救われると書かれてある。
それゆえ福音を、この恵みの日々に聖霊の導きを求めて今日も聴き続け、キリストの信仰による助けの中で、勇敢にタラントを用いなければならない。


ですから、神のみこころに従ってなお苦しみに会っている人々は、善を行うにあたって、真実であられる創造者に自分のたましいをお任せしなさい。(19)


試練の時には、神の御前に自分のすべてを広げて置くのが良い。信仰生活で築いて来たものすべてと、家族も、友人も、命も、大切に守って来たすべてを「どうぞ、みこころのままに」と陳列する。すべては元々主のものだからである。
主は成長に邪魔になるものを取り去られたら、後は豊かに祝福して返してくださるから。ヨブのように・・。


ランキングに参加中。クリックして応援お願いします!

名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

※ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最新の画像もっと見る

最近の「Weblog」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事