石ころ

聖霊の働き (マルコ14章)




 主の晩餐のあと、イエス様は賛美しつつ十字架に向かって行かれた。なんと神々しい光景だろう。お弟子はこれがイエス様とご一緒する最期であることがわかって居たのかな・・。
私たちにとってもイエス様を喜びたたえる賛美、主を求めての聖書の探求も、何時が世にあっての最期なの知らない。今が最期かも知れないことに気付いた。

イエスは言われた。「はっきり言っておくが、あなたは、今日、今夜、鶏が二度鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう。」
ペトロは力を込めて言い張った。「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません。」皆の者も同じように言った。(マルコ14:30~31)


ペテロは肉の熱心で言い張った。しかし、ペテロの熱心はゲッセマネで「ひとときも目を覚ましていることができない」ようなものであった。
私も何度かそんな失敗をして、イエス様の備えによって肉を削がれつつ守られて来た。信仰はキリストの執り成しに拠ると心から思っている。


 罪な無き神の御子が人によって裁かれ、十字架刑に処せられた。
人は自分が正しく評価されているか、どのように見られているかと心悩ませる者だけれど、ただ「みこころがなりますように」で良いのだ。イエス様以上に不当な扱いを受けることは決して無いのだから。

イエスを裏切ろうとしていたユダは、「わたしが接吻するのが、その人だ。捕まえて、逃がさないように連れて行け」と、前もって合図を決めていた。(マルコ14:44)
「先生」と呼びかけ、親しい挨拶をもって裏切るユダ。

イエスは、「友よ、しようとしていることをするがよい」と言われた。すると人々は進み寄り、イエスに手をかけて捕らえた。(マタイ26:50)
「友」と呼びかけて「するがよい」と許可を出されたイエス様。それは、ユダが自分の罪に気付いた時のために備えられた脱出の道。しかし、この言葉もユダは思い出せなかった。聞いていなかったからである。

しかし、イエスは黙り続け何もお答えにならなかった。そこで、重ねて大祭司は尋ね、「お前はほむべき方の子、メシアなのか」と言った。
イエスは言われた。「そうです。あなたたちは、人の子が全能の神の右に座り、
天の雲に囲まれて来るのを見る。」(マルコ14:61~62)


イエス様の最期のメッセージは「再臨」であった。今、私たちに「信じているか」と問われている。信じない者はイエス様を否定している。

すると、ペトロは呪いの言葉さえ口にしながら、「あなたがたの言っているそんな人は知らない」と誓い始めた。
するとすぐ、鶏が再び鳴いた。ペトロは、「鶏が二度鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」とイエスが言われた言葉を思い出して、いきなり泣きだした。(マルコ14:71~72)


イエス様の言葉を思い出したペテロは幸いである。
まことに、あなたがたに告げます。人はその犯すどんな罪も赦していただけます。また、神をけがすことを言っても、それはみな赦していただけます。
しかし、聖霊をけがす者はだれでも、永遠に赦されず、とこしえの罪に定められます。(マルコ3:28~29)新改訳


今日までみことばを何度拒否したことがあるだろう、何度も言い逆らって・・それでも赦されて今日まで信仰は守られて来た。主のお憐れみ、あがないの十字架の故に。

しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。(ヨハネ14:26)

聖霊を拒むなら御父も御子も思い出せなくなり、いつの間にか終わってしまう。聖霊によらなければ読んだばかりでもあっても、聞いたばかりのみことばも立ち上がった瞬間に忘れてしまう。私たちは思い出させてくださる方が必要なのだ。それが聖霊の働きである。

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