石ころ

埋葬の準備 (マルコ14章)




 イエスがベタニアでらい病の人シモンの家にいて、食事の席に着いておられたとき、一人の女が、純粋で非常に高価なナルドの香油の入った石膏の壺を持って来て、それを壊し、香油をイエスの頭に注ぎかけた。(マルコ14:3)

イエス様はライ病人の家で食事をして居られた。主はお医者さん。病む者を癒し、罪より解放して聖くしてくださる。主を汚せるものは何も無く主に触れる者は聖められる。

人は誰も彼女をほめず「厳しくとがめた」とある。此処はとても悲しい箇所である。
命を賜るイエス様に、それも自分の腹さえ痛まないものでも、惜しむ「人」というものが悲しい。肉の目には無駄でしかない捧げものがある。

人のために捧げれば人にほめられる。イエス様に捧げれば主を喜ばせる。どちらかを選ぶのかということである。
彼女はイエス様に捧げた。それも入れ物を砕いて一滴も残さず、完全に捧げきった。
生活費のすべてを捧げたやもめのように。
私たちにも何か捧げきったものがあるかなぁ・・。

「貧しい人に・・」それは惜しむ人のいいわけのように聞こえる。主を第一にしないで人を大切にすることは無い。いや、それは出来ない。すべては神より発するのでなければ完成はしない。私たちの良い計画を成し遂げるのは主であるから。

 香油を注ぐという主の埋葬の準備が終わったとき、ユダはイエス様を売るために闇の中に出ていった。
イエス様は「わたしを売ろうとしている」とユダに何度も忠告しておられた。それがどんなことなのかを知らせようとしておられたのに、彼はイエスさまの言葉をちゃんと聞いていなかった。だからイエスさまと一緒に居ても主を知ることはなかったのだ。
みことばをないがしろにしてイエス様を知ることはない。

「私は罪を犯した。罪のない人の血を売ったりして。」と言った。しかし、彼らは、「私たちの知ったことか。自分で始末することだ。」と言った。
それで、彼は銀貨を神殿に投げ込んで立ち去った。そして、外に出て行って、首をつった。(マタイ27:4~5)


イエス様はユダのためにさえ心を痛めておられたことが、新共同訳聖書を読んで知ることができた。新改訳では裁きだけを感じ、彼を産んだことの罪さえ感じられたので辛いなぁって考えて居たから。

確かに、人の子は、自分について書いてあるとおりに、去って行きます。しかし、人の子を裏切るような人間はのろわれます。そういう人は生まれなかったほうがよかったのです。新改訳

人の子は、聖書に書いてあるとおりに、去って行く。だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった。(マルコ14:21)新共同訳聖書


香油を捧げた女もユダもイエス様の埋葬に関わった。ユダはイエス様を悲しませ苦しませた。女は唯一十字架を前にしてイエス様を喜ばせた。心から彼女の存在に救いを感じる。

イエス様は罪人と食事を共にしてくださる。らい病人とも、私とも・・。そのことで「食いしん坊の大酒飲み」と非難されたけれど・・。
今、御父、御子、聖霊の交わりの中で私たちはみことばを食する。その宴会は朝毎に開かれ、みことばを食する食いしん坊で、聖霊に酔って御国に望みを託すことが赦されている。

この時間を売ってはならない。人に捧げてはならない。十字架で御子のいのちという代価が支払われているのだから。私たちはそうして買い取られたのだから。

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