そこで、モーセは前のものと同じような二枚の石の板を切り取り、翌朝早く、主が命じられたとおりにシナイ山に登った。彼は手に二枚の石の板を持っていた。(4)
モーセは命じられた通りを準備して、「翌朝早く」シナイ山に登って行った。すべて完全な従順によることである。
アブラハムも、モリヤの地でイサクを伴って山に登った。それは主に命じられ、全焼のささげものとしてイサクを捧げるためであった。
あの時もアブラハムは「翌朝早く」山に登って行った。主に従順するときは一瞬のためらいもなく、真っ直ぐな信仰によらなければ時を持ち去られる。
それによってアブラハムはイサクから出る約束の子孫を得て、モーセはイスラエルを主の所有の民とした。
その末に、異邦人の私たちもいのちの恵みに与ったのである。
主は雲の中にあって降りて来られ、 彼とともにそこに立って、主の名を宣言された。
主は彼の前を通り過ぎるとき、こう宣言された。「主、主は、あわれみ深く、情け深い神。怒るのに遅く、恵みとまことに富み、恵みを千代まで保ち、咎と背きと罪を赦す。(5~7a)
このみことばの約束にある、神の憐みと、温情と、忍耐と、恵みに寄りかかり、暗唱して試練の時に口ずさんで身を避け、どれほどの信仰者が自分にがっかりする時に望みを得て、倒れずに立って来たことであろう。そうして生きて働くみことばの実を、その人生に見て来たことであろう。
しかし、罰すべき者を必ず罰して、父の咎を子に、さらに子の子に、三代、四代に報いる者である。」(7b)
創造主である神はアダムをご自分の形に造り、命の息を吹き込んで生きるものとされた。
みことばを裏切って唯一食べてはならない善悪の実を食べ、罪が入って神の御目から逃げ隠れする者となった時、ひとり子の神をキリストとして世に下し、命をもって罪をあがなって取り戻すことを計画してくださった。
その神の初めからの愛をことごとく退け、御子の十字架の命と引き換えのあがないまでも拒絶して、サタンを選び取る者に神は届くことのない愛のゆえに、落胆と失望が怒りとなるのである。愛が無ければ無関心であり、罰する必要さえないのである。神が無視すれば人はわずかな間に滅びるからである。
神は永遠の愛をもって造ってくださった故に、人を愛する愛が永遠に変わらないゆえに、その拒絶は造り主を深く傷つけるのである。
しかし、誰も子孫に至る神の怒りを買う必要はなく、恵みを受けるようにキリストは来てくださったのである。
キリストに拠って赦しの必要はすべて完了しており、ただ「アーメン」と御前ひれ伏し、創造主の許に帰って永遠の愛の中に入ることが出来るのである。その強いうなじを聖霊に触れられて柔らかくするなら・・。
モーセは急いで地にひざまずき、ひれ伏した。
彼は言った。「ああ、主よ。もし私がみこころにかなっているのでしたら、どうか主が私たちのただ中にいて、進んでくださいますように。確かに、この民はうなじを固くする民ですが、どうか私たちの咎と罪を赦し、私たちをご自分の所有としてくださいますように。」(8~9)
人類にとってもっとも安全なことは、主の所有とされることである。私たちの命も、家族も、財産も、世の誉のすべてが主のもので在れば、主はご自分のものを守って祝福に満たしてくださる。
神は人を愛の対象としてご自分に似たものとして造られた。その初めの愛に戻ることこそ、最大の祝福である。信頼する者に神は良い方であり、良い計画だけを持っておられるからである。何しろ、御子をたまわるほどに愛されているのである。
すべてをささげものとした時、私たちはこの世に在る間も思い煩いから解かれ、真の自由と平安を満喫して生きるようになる。
そう、創造主なる神を愛して喜びほめたたえつつ生きるのである。