石ころ

ひとり山に登る(出エジプト34章)

 

主はモーセに言われた。「前のものと同じような二枚の石の板を切り取れ。わたしはその石の板の上に、あなたが砕いたこの前の石の板にあった、あのことばを書き記す。
朝までに準備をし、朝シナイ山に登って、その山の頂でわたしの前に立て。(1~2)

 

モーセは徹夜で石の板を切り出したのだ。一心に石を打つ音と、闇に働くモーセの姿が浮かぶようである。その急な重労働をモーセは喜んでいただろう。朝に備えられたチャンスは、彼の願いが叶ったことだからである。

 

今キリストのゆえに、何時でも主に近しく祈りのお交わりが赦されているキリスト者。真に、今は恵みの日である。

 

皆が寝ている時に働かなければならないことがある。主の御声を聴いた時、願いを叶えてくださるチャンスを逃さないためである。
それは寝ても覚めても寛いでいても、開かれている霊の耳が聴き取る主の御声である。今日は日曜日ではないから・・ではなく、礼拝は昨日済ませた・・でもない。

 

だれも、あなたと一緒に登ってはならない。また、だれも、山のどこにも人影があってはならない。また、羊でも牛でも、その山のふもとで草を食べていてはならない。」(3)

 

主は、モーセ一人を召しておられ、誰も山にさえ近づくことを許されなかった。それはモーセに罪が無いということではなく、神の選びに拠る赦しにあることである。

 

 主にお出会いするために山に登るという記事にはイエスを思い出す。イエスは世におられる間よく山に登って祈られた。そこに愛するヨハネやペテロを連れて行かれたという記事はない。最後のゲッセマネまでは・・。

 

世では真にイエスを知る人のない孤独の中で、イエスの安らぎは唯一御父とのお交わりであり、すべてを満たす命の源であったのだ。何事も御父より受けて働かれたからである。

 

キリスト者もまた、主の御前にひとり静まるお交わりによって、今日私に語ってくださるみことばを聴き取り、勝利のために必要な知恵と力を備えられ、傷を癒やされ、すべての不足を満たされてその日その日を生きるのである。

 

大人になればそれぞれの賜物によって、キリストの体の各器官として働くようになる。そのために自分の成すべきことを主に聴かなければならない。

人はみな自分の必要を受けて働くのであり、他人の分まで聴くことなぞ出来ないのである。自分の油は絶えず自分で用意するものである。

 

彼らはもはや、それぞれ仲間に、あるいはそれぞれ兄弟に、「主を知れ」と言って教えることはない。彼らがみな、小さい者から大きい者まで、わたしを知るようになるからだ。(へブル8:11)

 

聖霊に導かれて日々のみことばを聴き、祈りや賛美の中で主とのお交わりを持つことによって、今日成すべきことを知り、必要な力が備えられて安全に守られ、そのみことばが祭司の働きを完成させるのである。

 

悪魔の策略に対して堅く立つことができるように、神のすべての武具を身に着けなさい。
救いのかぶとをかぶり、御霊の剣、すなわち神のことばを取りなさい。(エペソ6:11.17)


ランキングに参加中。クリックして応援お願いします!

名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

※ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最新の画像もっと見る

最近の「Weblog」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事