みことばをそのまま信じること、みことばが何を語っているのかを正しく知ることはとても大切。私たち神の子とされた者にとって、それは何よりも切実なこと。
神様は私たちに何の良いものもないことはご承知。そんな私たちにただひとつ求められることはイエス・キリストを知ること、みことばの正しい知識を得ること。それがなくては神に喜ばれることはなく、救われた者が神様の子としての受けるべきものを得られない。そんなことを今週のメッセージを聴いて思った。
イエス・キリストの十字架のあがないに拠って、すでに義と認められているという事実に目が開かれていないと、絶えず自分を見てしまってそこには不安しかない。そこで、人を責めることで自分は正しいとしたり、互いに弁明し合ったりしてしまう。救われていても拠り所として自分の持ち物を数えて握りしめ、どっぷり世に引き込まれてしまって救い主を見失ってしまうことになる。
神様は私を子として迎えてくださった時、こう言われたと思う。
「さあ、子どもよ。あなたが成長して大人になったら、あなたの今の持ちものをすべて私に返しなさい。それらは成長した私の子どもには相応しくない。すべてを創造し、今も支配しているわたしの子どもたちが受けるべき永遠の資産をあげるから。」と。
でも、ちっとも恐れることはない。大人になることは恐いことではない。大人になっても父なる神様にとっては私たちは子どもだから。私たちの必要は全部ご存じでいよいよ父を愛する愛を育んでくださるから。
その私たちが受けた最高の資産は主ご自身。三位一体の御方が私たちの内に住まわれている。なのに無知の故に、聖霊の現れだけを求めたり、「畏れ多くて信じられない。」などと、事実おられる主を無視することもある。それはあまりにも愚かなこと。
神様の栄光を現すことが御救いを受けた私たちに対する神様のみこころ。神様の良きものを信仰の中で、声として、管としてそのまま世に流すこと。そのとき主ご自身が現れてくださるから、恐れる者ではなくみことばに信頼する者になりたい。
「あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。」(Ⅰコリント3:16)
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