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石ころ

ヨブ記から



「ヨブは、潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっていた。」とあるから、彼を訴える友への彼の言い分は間違ってはいない。ただ、ヨブが最も恐れていたものは・・、

私の最も恐れたものが、私を襲い、私のおびえたものが、私の身にふりかかったからだ。
私には安らぎもなく、休みもなく、いこいもなく、心はかき乱されている。(ヨブ記3:25~26)


ヨブが信仰深く歩んでいたその根底にあったのは、創造主なる神を神とする純粋な恐れではなく、自分の身に降りかかる災いではなかったのか・・。常に捧げていた子供たちの罪をあがなうための全焼のいけにえも、そのようであったのだろう・・。
ヨブが真に神を恐れることを学んだのは、試練の末に神と出会って教わったことであった。

私はあなたのうわさを耳で聞いていました。しかし、今、この目であなたを見ました。
それで私は自分をさげすみ、ちりと灰の中で悔い改めます。(ヨブ記40:6)


ヨブは降りかかる理不尽な苦痛の中で、イエス・キリストを求めていた。
神は私のように人間ではないから、私は「さあ、さばきの座にいっしょに行こう。」と申し入れることはできない。
私たちふたりの上に手を置く仲裁者が私たちの間にはいない。(ヨブ記9:32~33)


そうして、ついにイエス・キリストを見いだしている。
今でも天には、私の証人がおられます。私を保証してくださる方は高い所におられます。
私の友は私をあざけります。しかし、私の目は神に向かって涙を流します。
その方が、人のために神にとりなしをしてくださいますように。人の子がその友のために。(ヨブ記16:19~21)


ただこの事実のためにだけでもヨブの試練は価値がある。そこにはサタンの出る幕はなく、この神と人の交わりの中に彼は存在しない。
語り合ってくださるようにと求めたヨブの願いを神は叶えてくださった。圧倒的な創造主のみことばに、ヨブは真に恐れるべき方を知ることが出来た。


それは、ヨブの身に起こったようなすべての理不尽を超えて、その先に備えられてある造り主の愛。
そう、私たちは歴史の上に、また今は日々近しくその方御子イエスを見ている。彼はすべての人の理不尽をその身に負われ、すべての理不尽をもあがなってくださった。

ヨブの計り知れない幸いは2倍与えられた世のものではない。この交わりこそ、キリスト者にとって、いかなる犠牲を払ってもあまりある究極の価値あることである。
しかし、私たちはその交わりをすでに持っているのである!


ヨブと共に七日七夜地に座っていた友に、神は彼らを「ヨブのようではない」と言われたけれど、ヨブを通して赦しと回復を与えてくださった。彼らはヨブの現状だけを見てとんちんかんに責めたけれど、ヨブの言葉は忍耐をもって聞いていた。

しかし、エリフの言葉にはヨブへの愛の犠牲を伴ってはいない。どんなに神の義を語っても、語るだけのみことばは神をいらだたせるだけである。
むなしい美辞麗句よりは、心のうめきをそのままに語るとき神は近く来てくださりご自身を教えてくださる。そのことをヨブを通して知ることができた。

エリフの台詞通りに神は彼を顧みられることはなかった。
神は心のこざかしい者を決して顧みない。(ヨブ記37:24b)
神はヨブの友については語っておられるけれど、エリフの名は無視された。

私には神に赦されることは喜びであるが、無視されることは死よりも怖いことである。ヨブにご自身を語り聞かせてくださった主はほむべきかな!
父なる神様のお説教なら、いつまでもいつまでも聞いたい。みことばが何時でも身近にある幸に心から感謝。ハレルヤ!

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