「神に愛されている人よ。恐れるな。安心せよ。強くあれ。強くあれ。」彼が私にこう言ったとき、私は奮い立って言った。「わが主よ。お話しください。あなたは私を力づけてくださいましたから。」(ダニエル10:19)
神様がダニエルの恐れをのぞいて力を与え、話すこと、聴くことの備えてくださったのはなぜだろうと思った。彼は「我が主よ、お話し下さい。」と言うだけで無力であり、何の働きもできないのに・・。
しかし、真理の書に書かれていることを、あなたに知らせよう。あなたがたの君ミカエルのほかには、私とともに奮い立って、彼らに立ち向かう者はひとりもいない。(ダニエル10:21)
神様の現れによっていっしょに居た者は震え上がって逃げた。人は神様に向かって立つことはできなかった。罪人は神の権威に耐えられずダニエルも気を失っている。
しかし主は、恐れずに聞け・・と言われる。
「恐れるな。ダニエル。あなたが心を定めて悟ろうとし、あなたの神の前でへりくだろうと決めたその初めの日から、あなたのことばは聞かれているからだ。私が来たのは、あなたのことばのためだ。」(ダニエル10:12)
語る前から聞かれているとある。主はこのように備えて招いてくださるのだ。
今、新約の時代はなおさら、ダニエルの時代とはまったく違うのである。
キリスト者はイエス様の十字架によって罪の無い者とされ常に御父、御子、聖霊の三位一体の神様との親しい交わりにある者なのだから・・。
御救いの式服を着せられた時から、私たちは「アバ父」と神を呼ぶ者であり、その中身には拠らずイエス・キリストの備えによって、完全であり神の子という身分の者なのである。
このことこそ、キリスト者にとって何よりもわきまえているべき事柄である。
しかし、私たちに何が出来るのか・・すべては主がなさるのではないか。何の力が私たちにあろうか・・。それでも私たちはその席に招かれ、主の会議に出席することこそ御旨なのだ。主は私たちを救ってみこころを知らせ、語り合おうと計画されたのだから・・。主は何事も私たちに知らせたいのである。
イエス様が葬られた墓にマリヤたちが行ったとき、大地震と、輝く御使いと、死人のようになった番兵を見た。どれほど仰天したことだろう。どれほど恐ろしかったことだろう。しかし、彼女たちは「恐ろしくはあったが大喜びで・・」とある。
彼女たちの恐れは、御使いによって語られたイエス様のよみがりの知らせによって喜びに変わった。主を愛する思いが恐れに勝ったから・・。
そんな彼女たちにイエス様は現れて「おはよう」と声をかけてくださった。彼女たちは御足を抱いて拝んだとある。
人が主にひれ伏すのはどんな姿勢よりも美しいと思う。人が人にひれ伏す土下座と形は似ていても中身はまるで違うのである。
神の前にひれ伏す心は喜びと、感謝と、親しみからであり、安心して御前に身を投げ出しているのだから・・、それこそ造られた者の自然な形だと思う。
主の御愛に触れて思わずひれ伏す・・それは私にもとてもしあわせな瞬間。
「恐れるな」とは何度も聖書に出てくる言葉である。みこころを恐れ、知ることを恐れ、交わりを恐れる。その心のどこかには「あなたは恐ろしい方・・」そんなイメージがあるのではないか・・、主に愛されることをあまりにも知らないのではないかと思ってしまう。
「神に愛されている人」は、恐れず神を愛する人である。
愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。なぜなら恐れには刑罰が伴っているからです。恐れる者の愛は、全きものとなっていないのです。(Ⅰヨハネ4:18)
ところで、私たちは、この世の霊を受けたのではなく、神の御霊を受けました。それは、恵みによって神から私たちに賜わったものを、私たちが知るためです。(Ⅰコリント)
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