石ころ

光の子 (主のストーリー)


 火曜日の人が草刈りをしてあげたお礼を持ってきてくださった。久しぶりに信仰のことを話した。彼女のご主人は見違えるように元気になられて、誰の目にもその変わりようはあきらかである。
そのことを話すと、本当にイエスさまと天の神様にいつもいつも感謝のお祈りをしている。と満面の笑みで話された。「教会にも行かずに申し訳ないのだけれど・・」って。

そう、主に深く感謝をしつつ日々を過ごしておられる。イエスさまはそれで良いと言ってくださっているのだろう・・。彼女はご主人の元気をもって主を証ししているもの。
信仰の形は皆違う・・。
一番大切なことはイエスさまを喜んでいることだと思うから・・。
 

 我が家もおじいさんは日々朝から畑に行き、おばあさんは洗濯をしてご飯を作り、息子は淡々と会社勤め。ただ、それだけ・・。
大きな恵みを受けてもその日々はごく普通に過ぎてゆく。奇跡も7日も経てば当たり前のようになり、時々「感謝だね。」とうなずき合うだけ・・。

 死からよみがえった娘に、イエスさまは「食事をさせなさい。」とおっしゃった。ただ、それだけ・・。
熱病を癒されたペテロの姑はすぐにイエスさまをもてなし、ごく普通の生活にもどった。

イエスさまは広告塔なんか必要ない。イエスさまをスーパーの安売りのごとくに宣伝する必要もない。
唯、「自分の十字架を負って付いてきなさい。」それだけ。誰もイエスさまの十字架を負うことはない。すでにすべての必要は満たされている。
ただ信じる人だけが救われ、信じない者は滅びる。それが御神の定められたこと。

 私の十字架を負うって何だろう・・。主に置かれた所で、その環境でイエスさまに安息することだと今は思う。
私たちの目には、良いと思えるときも悪いときも、ありのままに光の中に居ること。ほめられてもそしられても・・変わることなく。


 また、ほめられたり、そしられたり、悪評を受けたり、好評を博したりすることによって、自分を神のしもべとして推薦しているのです。私たちは人をだます者のように見えても、真実であり、
人に知られないようでも、よく知られ、死にそうでも、見よ、生きており、罰せられているようであっても、殺されず、
悲しんでいるようでも、いつも喜んでおり、貧しいようでも、多くの人を富ませ、何も持たないようでも、すべてのものを持っています。(Ⅱコリント8~10)

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