石ころ

「私は・・」 (主のストーリー)


 みことばの上に「私は」という言葉を付けるとき、みことばは死ぬ。どんなに力在る神のことばであっても、何も出来なくなってしまう。
主は、すみやかにその主権を「私」に譲って退かれるから・・。

すべての祝福の約束も十字架のあがないも、強力な「私」の前に色あせてしまう。ああ、このことの悲しさよ・・。
なぜ、「アーメン」とひとこと言えないのかと嘆きたくなるけれど、このことは御子の命と引き替えに神の与えられた自由である。


 ベテスダの池の側で38年間も動けない病人が居た。イエスさまは彼に「よくなりたいか」と近づいてくださった。
しかし、彼は「はい」とは答えなかった。「私には・・」とめんめんと状況を訴えている。ひょっとしたら彼は、良くなりたくなかったのかもしれない・・なんて思う。

みことばに対して「アーメン」といえない時は、大概それを望んでいないことが多いから・・。
それでもイエスさまは彼を癒された。彼に起きて歩く力も与えてくださった。

なを、彼を見つけ出して
「見なさい。あなたはよくなった。もう罪を犯してはなりません。そうでないともっと悪い事があなたの身に起こるから。」(ヨハネ5:14)
警告を与え、これからの生き方を導かれた。

彼の罪とは、みことばに「アーメン」と言わない罪である。イエスさまに期待せずに、自分の弱さを見つめる罪である。
御わざを経験して、なをイエスさまを否定するなら、誰が救うことができるだろう・・。
だから、「アーメン」のないところでは御わざをなさることが出来ず、弱さは付きまとうことになる。

 本当に主のお憐れみは私たちを追いかけてくるほど深い。そこに希望があるのだから、自分を閉じ込めるものの手にいる彼らのために祈ろう。
「愛し合いなさい」という戒めは、主に賜った信仰の上にあぐらをかくことの戒めでもあると思うから・・。仮に少しくらい信仰があったとしても、

あなたには、何か、もらったものでないものがあるのですか。もしもらったのなら、なぜ、もらっていないかのように誇るのですか。(Ⅰコリント4:7)

って、追いかけてくださった主に叱られるだろう・・。
でもね、だから心配要らないのだと思う。自分をのぞき込んで心配しなくても、何時もいつも心配して居てくださるイエスさまが居てくださるのだから・・。彼は決して私たちを孤児にはされないから・・。

イエスは、彼らをじっと見て言われた。「それは人にはできないことですが、神は、そうではありません。どんなことでも、神にはできるのです。」(マルコ10:27)
目はイエスさまに釘付け!その幸いを共に味わいたいと願う・・。

ランキングに参加中。クリックして応援お願いします!

名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

※ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最新の画像もっと見る

最近の「Weblog」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事