石ころ

初めに、神が天と地を創造した




 庭の雑草を取ってちょっとすっきりした。クマガイソウやエビネの芽を踏まないように、だから今まで手を附けずにふかふかの苔の間からはっきり芽が見えるまで待っていた。
この巨体で踏まれたら一巻の終わりだろうから・・。
去年は沢山の花が咲いたけれど、今年は芽が少ないなぁ・・まだこれからも出ると良いけれど・・。
主人と一緒に病んでいた梅は思いっきり剪定したからか、あま~く香って数は少ないけれどピンク色の八重が可愛い。乱暴な剪定だったのに咲いてくれてありがとう!


 神様は天地宇宙も、太陽も月も星も、水も、木や草も、魚も鳥も、すべてをことばによって「光よ、あれ」というふうに命じて造られた。
それぞれを種類に従って区別して・・。進化ではなく初めから区別して種類毎に造られた。そのあまりに無数にある種類ゆえに、人の頭には思いも浮かばないことなので否定するのだろう。


ただ人間の創造だけは、それらのものとはまったく違っていた。
人は神のかたちに、神の手によって地の塵から造られ、神の息を吹きこまれて生きるいのちが与えられた。そう、神様に依って生きるように造られているのである。
そうしてすべての創造物を人間の支配に委ねられた。

人が初めから神のかたちとして、神の息(神の霊)を持つ者として造られたことによって、今、イエス・キリストのあがないによる、父なる神、御子イエス、聖霊の交わりにいることができるのである。これはただ信仰による。

だれでも、イエスを神の御子と告白するなら、神はその人の内におられ、その人も神のうちにいます。(Ⅰヨハネ4:15)

それは創造の初めから神の定められた通りなのである。
キリストのあがないを着ているなら、私がどんな者であるかなどということによって、コロコロと神のご計画が変わるようは短絡的なものではないのだ。
ただ、神様の計画にある自分の身分や立場を悟らない者にとっては、この事実は絵に描いた餅でしかないのだろう。でも、それは神様の悲しみでしかない。

 草を引きながら、今朝読んだ創世記の初めに思いを巡らせていた。
初めからの備えをしておく必要があるので、重い腰を上げて準備しようとしたけれど、私自身の興味となってしまって結局何の準備もできなかった。
まあ、何を語ろうかと心配する必要はないとも言われているし・・なんとかなるだろう。

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