また私は見た。海から一匹の獣が上って来た。これには十本の角と七つの頭とがあった。その角には十の冠があり、その頭には神をけがす名があった。
私の見たその獣は、ひょうに似ており、足は熊の足のようで、口は獅子の口のようであった。竜はこの獣に、自分の力と位と大きな権威とを与えた。(13:1~2)
ダニエルが夢に見て預言されていたことが起こうとしている。(7章)その詳細はその時になったら、神にいつも耳を傾けている者に知らされる。
ヨハネはこの日が来ることを知らせ、日々主に聴いて備えることを教えているが、真の教会はもう地上には居ないので、この神の言葉を聴くのは、イエス・キリストを告白するユダヤ人なのか・・。
その頭のうちの一つは打ち殺されたかと思われたが、その致命的な傷も直ってしまった。そこで、全地は驚いて、その獣に従い、(3)
奇跡はサタンも行うことができる。出エジプト7章でも、アロンに対抗して呪術者が奇跡を行っている。
獣(地から起こる王とも国とも書かれている)はサタン発の奇跡を行う。それが人の心を奪うのはそのエンターテインメント性のゆえだろう。サタンが人の感情をコントロールすることに長けているのは、エバへの誘惑でもわかる。
それに比べて、キリストの奇跡は田舎の片隅でひっそりと行われ、律法に縛られずに偽善を暴き、宗教にあぐらをかいている権力者の反感を買うものであった。人の肉性はいつでも神の霊に反発する。
そして、竜を拝んだ。獣に権威を与えたのが竜だからである。また彼らは獣をも拝んで、「だれがこの獣に比べられよう。だれがこれと戦うことができよう」と言った。
この獣は、傲慢なことを言い、けがしごとを言う口を与えられ、四十二か月間活動する権威を与えられた。(4~5)
神をたたえる言葉を、サタンや反キリストに与える愚かさを人々が犯すようになる。
サタンも光の御使いを装う。その時、霊に盲目な民は、滅びに引き込む残虐な権威に自ら引き寄せられて行くのである。
あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたがしらがになっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。なお、わたしは運ぼう。わたしは背負って、救い出そう。
「わたしをだれになぞらえて比べ、わたしをだれと並べて、なぞらえるのか。」(イザヤ46:4~5)
神のことばは憐みと祝福の御力である。神は生かし、サタンは滅ぼすものである。今は、自由意思でどちらを選ぶこともできる残りの時間である。
そこで、彼はその口を開いて、神に対するけがしごとを言い始めた。すなわち、神の御名と、その幕屋、すなわち、天に住む者たちをののしった。
彼はまた聖徒たちに戦いをいどんで打ち勝つことが許され、また、あらゆる部族、民族、国語、国民を支配する権威を与えられた。(6~7)
すべてを賭して彼らが働く動きは神を汚すことと、神に造られた人の命を奪うことであるが、すべては神のご計画の範疇(はんちゅう)にすぎない。
地に住む者で、ほふられた小羊のいのちの書に、世の初めからその名の書きしるされていない者はみな、彼を拝むようになる。
耳のある者は聞きなさい。(8~9)
創造主なる神を信じ、獣を拝まない力を持っているということは、世の初めにいのちの書に名のしるされていたことであり、ただ選ばれたことに感謝してひれ伏すのみである。
あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。(ヨハネ15:16)
選びに在る者はキリストの十字架を知っており、その死にある勝利を知っている。あたかも敗北のようにしか見えないキリストの姿にこそ、迫害に在る聖徒に平安と確信、喜びと励ましをたまわるのである。
とりこになるべき者は、とりこにされて行く。剣で殺す者は、自分も剣で殺されなければならない。ここに聖徒の忍耐と信仰がある。(10)