石ころ

神の完全 (Ⅰコリント1章)




あなたがたはキリストに結ばれ、あらゆる言葉、あらゆる知識において、すべての点で豊かにされています。
こうして、キリストについての証しがあなたがたの間で確かなものとなったので、
その結果、あなたがたは賜物に何一つ欠けるところがなく、わたしたちの主イエス・キリストの現れを待ち望んでいます。
主も最後まであなたがたをしっかり支えて、わたしたちの主イエス・キリストの日に、非のうちどころのない者にしてくださいます。(Ⅰコリント1:5~7)

「非のうちどころのない者としてくださる」このことは神様の約束に拠ることであり、それは人の頑張りによって勝ち取るようなことではない。だから私たちは望みにあふれて、キリストの再び来てくださる日を待つことができるのである。

私たちは、すでに主にあって信仰に何不自由の無い者とされている。いつでもキリストを自由に味わい、主を語り、主を楽しみ、主を喜び、なを期待して、父と子と聖霊の交わりの中に住んでいる。
今も助け主なる聖霊によって、みことばについては何時でも尋ねることができるので、幼子であっても、無学な年寄りであっても主を知ることに不自由はない。

ところが、神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。
また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです。
それは、だれ一人、神の前で誇ることがないようにするためです。(Ⅰコリント1:27~29)


主は求める者に豊かに必要を備えてくださっている。ただ、私たちに主への愛があり、求めるならばということである。愛する方を知りたいとねがう願いを叶えてくださっている。愛は応答するものであり、愛は響き合うものである。まして御子を賜るほどの愛においては・・。

十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。
それは、こう書いてあるからです。「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さを意味のないものにする。」(Ⅰコリント1:18~19)


主が選ばれるのは、誇るものの何も持っていない者であった。神様から賜ったもの以外には、何ひとつ良いものをもっていない。そのことが人の目にも明らかであるなら完全であり、完全であるときに真っ直ぐに御名が崇められるのである。

世の賢さも知恵も神様を知ることには何の役にも立たない。求める人には主がすべてを明らかにしてくださるからである。「どうして無学な者に聖書が分かろうか」などと思い上がるものではない。人の足りない分を神様は満たすことが出来るからである。

しかし、いつもあなたがたの内には、御子から注がれた油がありますから、だれからも教えを受ける必要がありません。この油が万事について教えます。それは真実であって、偽りではありません。だから、教えられたとおり、御子の内にとどまりなさい。(Ⅰヨハネ2:27)


神によってあなたがたはキリスト・イエスに結ばれ、このキリストは、わたしたちにとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられたのです。
「誇る者は主を誇れ」と書いてあるとおりになるためです。(Ⅰコリント1:30~31)


写真は、晩秋の野にあるれんげ草

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コメント一覧

ムベ
コメント感謝いたします
そのことばは私の目を通して見る事ではなく、完全で全能の神の目で見て
「非のうちどころのない者としてくださる」

アーメン、アーメン
そのように主が定められ、主がそのように判定されたことが、唯一真実なのだと思います。
「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」というみことばも、それが造り主である主の判定であるから、自分をそのように思い定めて喜ぶのです。

パウロは自分で自分を裁くことさえしないと主に委ねました。
主のすべての判定に「アーメン」と言うとき、人の評価から解放されて、神様の愛に浸って備えられた力を得るのだと思います。

「弱さのうちに完全に現れる神の力」にあれば、人は恐れ退くことはないでしょう。ここにすべての言い訳も通じなくなるからです。

私は思うのですが、訓練が厳しいときほどコーチは離れずに寄り添うものですから、コーチを愛しているなら喜びでもある・・のですよね。

純粋に訓練で受けた傷なら、その癒しは主が責任を持ってくださいます。用いた素材を完全に把握しておられるからです。
だから、本当に「感謝なことです」
電気屋
『「非のうちどころのない者としてくださる」このことは神様の約束に拠ることであり、それは人の頑張りによって勝ち取るようなことではない。』

アーメンですね。
後ろ向きな想像ですが、おそらく私は最後の一日までも

「私は主のお蔭で非のうちどころのない者となった」

と自分で確認できる日はないだろうと思います。
そのことばは私の目を通して見る事ではなく、完全で全能の神の目で見て

「非のうちどころのない者としてくださる」

という事で
考えても更に恐れ多い状況なのですが、多分そうなのだろうと思います。
ノアに目を留めて「全き人であった」とかロトや多くの主の選ばれた方々を見る主の眼差しは、その名を「不思議」とも言われるに相応しいです。
ムベさんの書かれた事を読ませて頂き思い浮かんだ聖句です。

1コリント1章31節

「誇る者は主を誇れ」

2コリント11章30節

「もし誇らねばならないとするなら、私の弱さが持つ事柄を、私は誇ろう。」


ヘブル12章11節

「すべての訓練は、当座は、喜ばしいものとは思われず、むしろ悲しいものと思われる。しかし後になれば、それによって鍛えられる者に、平安な義の実を結ばせるようになる」

感謝な事です。
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