イエスさまは空腹を覚え、豊かに葉を茂らせているいちじくの木に実を探されたけれど、それは葉ばかりだった。
「いちじくのなる季節ではなかったからである。」(マルコ11:13)とある。だったら、実がないのは当たり前ではないか・・と、この言葉は不思議だった。
だから疑問な時はいつもそうするように、「なぜですか」と主に訊いてみた。近頃は間髪容れずに教えて下さることが多いので、わからないことにであう時は、新しく主に出会うワクワクとした一瞬でもある。
自然に実をならせるのは世である。それは習わし通りになるようなもの。
主の必要のために、どんなときでも実をつけることができる。それがキリスト者の祈り。山をも動かすことができると約束されているではないか。
緑濃く茂る葉は、人目に触れぬようにそっと主の実を守る働き。
主の教会なら必ずそのようである。どうぞ教会をそのようにお守りくださいますように!
イエスさまをお乗せしたのは、一度も人を乗せたことのないロバ、「経験がない」それがイエスさまのご用をするための大切な条件。知らないことを主によって成してゆく。
人の手垢の付かない部分で、今日初めて出会うイエスさま。それが主に在る日々。その中で結ぶ実はあり得ないという新鮮な実。ただ、主の為にのみそっと結ぶ。
「神を信じなさい」と主は言われる。期待しなさい。願いなさい。求めなさいと命じられている。何を・・主の必要を満たすことを!
「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮んだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。」(Ⅰコリント2:9)
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