石ころ

すべてを祝福の備えとして




主は、現在も警告や導きのために預言させなさることがある。以前、教会の取るに足りない者を用いなさった。主から出た言葉はすべて、何年か後にその通りになった。
一部始終を見た者は、たとえ不都合な事であっても、その事実を伝える責任がある。

パリサイ人や律法学者がそうしたように、不都合を見なかった事にしてはならない。それはイエスさまを知らないと言うことであるから・・。
その時、「わたしはあなたを、全然知らない」とイエスさまは言わなければならなくなる。

どんな立場にあろうと生きている今なら間に合う。誰であろうと明日はわからない。
なぜ主は掘り返すように過ぎたことを語らせなさるのか、それは唯一、主だけが未来に起こる事を知っておられる証であるからなのだ。

それに、良い実を結ぶにまだ間に合うからであり、叱責のためではない。人は失敗をする者であり、主は私たちの失敗が起こる前からご存じなのである。
イエスさまは失敗を覆ってすべてを益とするために、真実な交わりを待っておられるのである。

わたしを人の前で知らないと言う者は、神の御使いたちの前で知らないと言われます。(ルカ12:9)

ペテロがイエスさまを3度知らないと言ったとき、イエスさまは彼のために、あらかじめの祈りによって守っていてくださった。彼は失敗の経験の上に教会を建てたのだ。

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