石ころ

日曜日にはイエス様のお話を聞く 2007.8.26.

 
saltさんのメッセージ 「エペソでの出来事」 使徒19章

 アポロが去った後、パウロはエペソにやってきました。そこで12人ほどの小さな群れに出会います。この箇所の記述を巡るある種の解釈は、大きな問題を生みだしています。サタンは、「聖霊が信じた者への第二の恵みとして、信じてから後に与えられるのだ」という印象を与えようと働きましたが、聖霊は、決してそんな偽りにはアーメンさせたりしません。慎重に学び、何が正しいかを見極め、自分のものにしてください。信仰のステップとして、「信じて時間をおいてから後に」聖霊が与えられ異言や預言を語るというのは真っ赤な嘘です。

 ひとつ誰でも思いつき、そして答えられそうな質問をしてみます。パウロはなぜこの12人に「信じたとき、聖霊を受けました」という質問をする必要があったのでしょうか、こういうことを考えながら読むことはとても大事なことです。

 この箇所に限らず、聖書を読んでいてもこの種のふつうの疑問を持たずに読み流し、特有の解釈を押しつけられ、信じ込まされていることが非常に多いからです。

 私のメッセージに関しても同じことで、所詮人間がやっていることですから、いつも正しいことを語っているかどうかは怪しいものです。「ああそういう意味だったのですか」ではなく、一緒に考え一緒にみことばを検証して欲しいのです。あの賞賛されていたペレヤのユダヤ人のように、「はたしてその通りかどうかを毎日調べて」欲しいのです。

 改めて考えましょう。パウロはなぜこの12人に「信じたとき聖霊を受けましたか」という質問をする必要があったのでしょうか。パウロはいろんな町々を巡って、福音を語り、信じた人たちを励まし続けていますが、そこかしこで出会う人たちに同じ質問をしたと思いますか。

 ごく普通に考えて、パウロはこの弟子を自称する12人に、聖霊の働きを感じなかったから、そう尋ねたのだと考えられます。彼等には、禁欲的、律法的な物事に対する真剣さはあっても、喜びや自由など、いのちがもたらすキリストの香りが感じられなかったのです。パウロの見立ては当たっていました。

「いいえ、聖霊の与えられることは、聞きもしませんでした。」(使徒19:2)とその弟子たちは答えています。彼等は知識としても経験としても、聖霊を知らなかったのです。なぜなら、彼らはヨハネのバプテスマしか受けていなかったからです。ヨハネの授けたバプテスマは「悔い改めのバプテスマ」であって、「キリストの死にあかるバプテスマ」ではありませんでした。(ローマ6:3~4)

 ここに旧約時代の終わりと、新約時代の始まりの明確な区分があります。預言者ヨハネまで、それ以降は教会の時代です。なぜそうなのかはわかりませんが、主がそうお決めになっているのです。ヨシュアとカレブはカナンの地に入りましたが、出エジプトの最大の功労者モーセにはそれが許されませんでした。

 旧約時代の王でも預言者でも、彼らにとどまった主の霊は一時的なものであり、永遠に彼らの中にとどまるという約束などありませんでした。しかし、新約時代に与えられる救いは神の子供としての特権であり、御国を受け継ぐことの保証として聖霊が与えられるというものです。これは、旧約の時代には考えられないほど大きな恵みです。誰も思いつきもしないし、仮に思いついたとしても、口に出して願うことさえはばかるほどの畏れ多いことです。

「あなたがたに言いますが、女から生まれた者の中で、ヨハネよりもすぐれた人は、ひとりもいません。しかし、神の国で一番小さい者でも、彼よりすぐれています。」(ルカ7:28)とイエスさまはいわれました。私たちは神の国の一番小さい者の集まりかもしれません。しかし、それでもバプテスマのヨハネより偉大なのです。

 ヨハネ本人もそのことをよく自覚してこう言っています。
「花嫁を迎える者は花婿です。そこにいて、花婿のことばに耳を傾けているその友人は、花婿の声を聞いて大いに喜びます。それで、私もその喜びで満たされているのです。あの方は盛んになり私は衰えなければなりません。」(ヨハネ3:29~30)

 ヨハネとは花婿の友人であり、花嫁は私たち教会です。この明確な違いが分かりますか。これは感覚の問題ではなく、教理の問題でもなく、いのちの問題であり、福音の根本に関わることです。応用や発展ではなく、土台や基礎の部分です。

「この救いについては、あなたがたに対する恵みについて預言した預言者たちも、熱心に尋ね、細かく調べました。彼らは、自分たちのうちにおられるキリストの御霊が、キリストの苦難とそれに続く栄光を前もってあかしされたとき、だれを、また、どのような時をさして言われたのかを調べたのです。彼らは、それらのことが、自分たちのためではなく、あなたがたのための奉仕であるとの啓示を受けました。そして今や、それらのことは、天から送られた聖霊によってあなたがたに福音を語った人々を通して、あなたがたに告げ知らされたのです。それは御使いたちもはっきり見たいと願っていることなのです。」(Ⅰペテロ1:10~12)

 もう少し、苦く厳しい指導をしておきましょう。今日の多くの教会はこのヨハネのバプテスマしか知らない段階にとどまっているのではなく、ヨハネのバプテスマさえ知らないし、知らないから教えないところが多いのです。「悔い改めずに信じよう。あなたは愛されるために生まれた。ありのまま、そのままのあなたでいい。信じれば、神様はあなたの一生を良いもので満たし、すべてのことが益となるのです。さあ預言だ。異言だ。祝福だ。リバイバルだ。」って・・・・こんなの嘘でしょう。

 ヨハネの教えたことがベースにあって、さらにイエスの死にあずかるバプテスマです。そうでなければ、なぜ福音書はヨハネから始まるのですか、イエスさまがあえて公生涯のはじめにヨハネのバプテスマを受けたのですか。

 このふたつのバプテスマの違いを理解せず、間違ったかたちをいのちの信仰だと思いこむことは悲惨な結果をまねきます。
 だからイエスさまは
「古い皮袋に新しい酒を入れると、革袋も裂けるし、ぶどう酒も流れ出てともに駄目になる」と言われたのです。(マタイ9:17)

 この12人とのやりとりの後、パウロは、会堂で3ヶ月、ツラノの講堂で2年間教えました。この間、パウロを通して驚くべき奇跡がいろいろと起こりました。その現象を見たユダヤ人の魔除け祈祷師のある者たちが、イエスの御名を使ったエピソードがでてきます。

 このときの悪魔の答えがおかしいですね。
「自分はイエスを知っているし、パウロもよく知っている。けれどおまえたちは何者だ。」(使徒19:15)

 この様子が伝わって、聞く者に恐れが生じ、イエスの御名を崇めるようになったと書かれています。多くの人が自分のしていることをさらけ出して告白し、魔除けなどに関する多くの書物を焼いて、はっきり過去を断ち切ったのです。(使徒19:18~19)
この箇所をさきほどの文脈の流れの中で読んでくれば、何が大事なのかそのポイントを読み違えることなど、まずないはずです。

 ルカは事実を記録しているにすぎませんが、その意図は明確です。では、馬鹿らしさをこらえつつ質問します。聖書は、不思議な現象や力を追い求めることを勧めていますか。それとも、イエスの御名を恐れ、罪を告白して、過去を断ち切ることを勧めていますか。

 書かれた意図を曲解する人々は、みことばの教えに耳を傾ける前に、自分たちの主張や教理が強く存在しています。それが邪魔になって、何と義務教育レベルの国語力を失ってしまっているのです。

 さらに、宗教が金儲けと一体になっている様子も描かれています。アルテミス神殿の銀細工は、それで商売をする人たちの懐を潤していました。御利益に預かりたい人々の欲望と、そんな宗教グッズを販売して利益を得たい人たちが互いの欲望を金で交換して繁栄させた町それがエペソです。

そんな町にとって、「人の手がつくったものなど神ではない」と発言するパウロは迷惑千万でした。エペソは大混乱に陥ります。町中が大騒ぎになり、何が原因で騒いでいるのかわからないまま騒ぐ人まで現れます。ルカはそんな様子や群衆の心理を巧みに描いています。

 この混沌とした状況を見事な政治的手腕で鎮圧する人物が出てきます。エペソの町の書記役にあたる人物です。彼は問題点を整理して、集会を解散させることに成功します。これは非常に良いことのようにも思えますが、あながちそうとも言えません。

 実はこういう存在は、銀細工人以上に警戒が必要です。
福音を是認するかに見える人々の合理的政策が、信仰を骨抜きにする可能性は大いにあります。書記役の発言や決定は、パウロのことばに感動し、そのメッセージを受け入れたためではなく、ただ町の治安を維持するためのものです。信仰のない人々の政策の中に教会活動が巻き込まれていくことは、非常に危険です。

 福音は政治や経済とは決して並び立つものではありません。私たちはそのことを肝に銘じる必要があるでしょう。

 使徒19章は、「聖霊の名を借りたパフォーマンス」「しるしや不思議に惑わされること」「お金を集める宗教の愚かさ」「群集心理や政治と信仰」といった今日的なテーマに関して、極めて鋭く深い示唆を与えてくれる箇所だと言えます。

 パウロは、このエペソの教会に対して、手紙の中で、この世を支配する霊的な力や流れについて、またそれに立ち向かう方法について述べていますが、それは、このような背景をもとに書かれていることを覚えてください。

 
「あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行ない、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。」(エペソ2:1~3)

「悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。」(エペソ6:10~12)

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