私は自分の力では何も出来ない者なので、イエス様に救われた後はみことばに寄りかかって生きてきた。大きなことも小さなことも、みことばに聴く度に、主のご真実を体験させてくださった。「御利益信仰」そんなふうに言われたこともあるけれど、ある意味当たっている。御利益をいっぱいに受けてきたから。
私の聖書は、そんな度に書き込む日付やメモなどで汚れている。けれどもイエス様と歩んだ大切な記録。今、それを整理している。
それは、このみことばから・・初めて息子を連れて教会に行って知った、このみことばに出会って息子も私もいのちを得た。
「またイエスは道の途中で、生まれつきの盲人を見られた。弟子たちは彼についてイエスに質問して言った。「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。」イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現われるためです。」(ヨハネ9:1~3)
1984.1.15
信仰に入って間もなく、信仰のない主人にどのように接していくべきかと悩み、宣教師の先生にお話ししたときに教えて頂いたみことば。先生は「帰って、このみことばの様にしなさい」とおっしゃり、私は「はい」と答えた。
「同じように、妻たちよ。自分の夫に服従しなさい。たとい、みことばに従わない夫であっても、妻の無言のふるまいによって、神のものとされるようになるためです。それは、あなたがたの、神を恐れかしこむ清い生き方を彼らが見るからです。」(1ペテロ3:1)
1986.7.24
主人のことを祈り続け心配していたが、このみことばを頂いて、イエス様に主人のことをすっかりお任せすることが出来るようになり平安を頂いた。
「わたしは彼の道を見たが、彼をいやそう。わたしは彼を導き、彼と、その悲しむ者たちとに、慰めを報いよう。わたしはくちびるの実を創造した者。平安あれ。遠くの者にも近くの者にも平安あれ。わたしは彼をいやそう。」と主は仰せられる。」(イザヤ57:18.19)
「罪を嘆いて告白するように仕向けよう」リビングバイブル
1986.9.14
主人に私が教える必要はないと、神がご計画を持っておられることを知った。
「それは、わたしが、あなたの行なったすべての事について、あなたを赦すとき、あなたがこれを思い出して、恥を見、自分の恥のためにもう口出ししないためである。・・神である主の御告げ。・・」(エゼキエル16:62.63)
1987.1.1
地域の役をするときもみことばに信頼した時、主は私たちを驚かせて下さった。手段や方法ではなく、クリスチャンはどんな場合もイエス様の臨在を求めることを教わった。
「主が家を建てるのでなければ、建てる者の働きはむなしい。主が町を守るのでなければ、守る者の見張りはむなしい。」(詩127:1.2)
1987年
長男の大学入試、第一志望に落ちたとき、このみことばによって望みをつなぐことが出来た。そして、本当に彼にぴったりな今日に繋がる進路を開いてくださった。
「 私は山に向かって目を上げる。私の助けは、どこから来るのだろうか。私の助けは、天地を造られた主から来る。・・・主は、あなたを、行くにも帰るにも、今よりとこしえまでも守られる。」(詩121:1~8)
1989.1.31
次男の高校入試に悩んでいたとき。聴覚障害を理由に次々と受験を断られていた。しかし、みことば通りに家の前に道は開かれ、現在に繋がる進路が開かれた。イエス様は永遠を見通して備えられることを知らされたみことば。
「わたしは、あなたの行ないを知っている。見よ。わたしは、だれも閉じることのできない門を、あなたの前に開いておいた。なぜなら、あなたには少しばかりの力があって、わたしのことばを守り、わたしの名を否まなかったからである。(黙示3:8)
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石ころ
石田耕也
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