みことばによってイエス様は、私のすべてを育んでくださっている。イエス様は本当に忍耐強い教師、デコボコな私を決して見捨てなさることはない。
1990.1.22
友人の伝道に戸惑っている時、このみことばによって、主ご自身が備えておられる救いであると知り、彼女の信仰のペースを受け入れ、自分の出来る範囲に望みを持って安息することができた。
「夜は寝て、朝は起き、そうこうしているうちに、種は芽を出して育ちます。どのようにしてか、人は知りません。地は人手によらず実をならせるもので、初めに苗、次に穂、次に穂の中に実がはいります。」(マルコ4:27.28)
1990.6.27
膵臓ガンの疑いで入院中、検査が次々と続きERCP検査となり、私はその検査の危険を知り(「抗生物質の24時間点滴を4日間」との説明を受けた)断って退院をした。私には残された時間が惜しく、それは私の選択だった。その時のみことば。
聞きなさい。「きょうか、あす、これこれの町に行き、そこに一年いて、商売をして、もうけよう。」と言う人たち。あなたがたには、あすのことはわからないのです。あなたがたのいのちは、いったいどのようなものですか。あなたがたは、しばらくの間現われて、それから消えてしまう霧にすぎません。むしろ、あなたがたはこう言うべきです。「主のみこころなら、私たちは生きていて、このことを、または、あのことをしよう。(ヤコブ4:13~15)
1990.11.24
次男の聴覚障害は祈りによって癒されると言われ、「癒しを望まないから・・本人にその気持ちがないから・・」などと言われたことがあった。しかし、主はみことばを教えて下さった。そして今、霊、魂を癒してくださり、障害は主を知る道具となった。
「私は知った。神のなさることはみな永遠に変わらないことを。それに何かをつけ加えることも、それから何かを取り去ることもできない。神がこのことをされたのだ。人は神を恐れなければならない。」(伝道の書3:14)
1991.7.18
子ども達の学費の準備に不安がある。お金の問題はいつも非常に現実的な悩みとなった。しかし、この時こそ生きて働かれる主を知るときであった。実際何一つ不自由することはなかった。
「あなたの先祖たちの知らなかったマナを、荒野であなたに食べさせられた。それは、あなたを苦しめ、あなたを試み、ついには、あなたをしあわせにするためであった。・・」(申命記8:16.17)
1991.8.16
私は祈り、断食、伝道、ひとり土足で主のおられる荒野に入っていったようだった。教会の真ん中で姉妹を責める証をしてしまった。それは数年後に事実となったけれど、その時には自分がとんでもない間違いを犯したと、一週間泣いて泣いて過ごした。長男がそんな私を守るように、ぴったりと側に居てくれたけれど、彼の信仰をつまずかせたのではないか、傷つけたのではないかと今も心が痛むことがある。
泣きながらも、悔やみながらも、私は主に「なぜですか、」などと言っていた。そんな私はこのみことばで正気に返った。そして、この時本当に主を畏れることを学んだ。「荒野にはイエス様がおられます。でも、サタンも居ます」そんな言葉も後で知った。
だれがわたしにささげたのか、わたしが報いなければならないほどに。天の下にあるものはみな、わたしのものだ。(ヨブ41:11)
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