石ころ

日曜日はイエス様のお話を聞く 2006.2.11


saltさんのメッセージ「なだめの供え物」

 加害者と被害者の間や、あるいは利害が衝突している人たちの間に、第三者が入って仲裁することはあります。仲裁者は客観的に、少しでも妥当な落としどころを見つけるだけで、自らが進んでリスクを負うことなどありません。

 「なだめ」というのは、例えば、学校を舞台にいじめなどの事象が起こった場合、教師達は仲介者、または当事者として、その問題の解決に関わるわけですが、なかなかうまくはいきません。失敗する場合の原因を分析してみると、双方の思いに十分共感できないのに、早く上手くことを治めようとしています。そう言う場合は、教師自らが子どもの痛みに共感することも、間違いは間違いとして、毅然として罪をいさめることもできないのです。

 十字架は、「被害者」であるイエスさまが「加害の意識さえない加害者」である人間を赦し、「正義の侵犯者」である神をなだめるというものです。誰が人類が積み上げてきたこの罪の数々をとりなし、神と人を和解に導くことが出来るでしょうか。

「神は唯一です。また、神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです。」(Ⅰテモテ2:5)

 ここでは、3つの重要なポイントが語られています。まず、神は唯一です。次に仲介者も唯一です。そして、その仲介者は「人としてのイエス」です。

この世には何と多くの神があふれていることでしょう。それは、人の側から大いなるものへの和解を求めたあえぎの結果です。しかし、仲介者は、双方の思いや痛みに共感できる、具体的な解決能力を持った者でなければなりません。それが人間としてお生まれになった神のひとり子イエスさまです。

「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」(ルカ23:34)

今日は、この十字架上でのとりなしのことばをより深く理解するために、「なだめの供え物」というキーワードで、みことばをひらいていきたいと思います。「なだめの供え物」ということばですが、なんとなく意味は分かりますが、一般にはあまり使わない聖書特有の表現ですが、きわめて重要なことばです。

「この方こそ、私たちの罪のための、・・私たちの罪だけでなく全世界のための、・・なだめの供え物なのです。」(Ⅰヨハネ2:2)

 御父の前で弁護してくださる方は、ただことばで弁護してくださるだけでなく、身代わりの罰を受けてとしなしてくださっているのですから、その弁護は完全なのです。御父はその正義を曲げることなく、この方の義のゆえに、祈りに答えて御子につながる者を赦さないわけにはいかないのです。これは全世界のためのとりなしです。キリストの死は全世界を購うための犠牲なのです。

「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」(Ⅰヨハネ4:10)

 神がご自分をなだめるための供え物を自ら用意されました。それが全てです。そして、神から人へ流れるものそれが愛なのです。私たちがキリストにある兄弟姉妹を愛することができるとしたら、それは父の愛が自分を突き抜けて相手に届いているのです。

 私たちは神をなだめることなどできませんし、その必要さえ感じませんでした。人間が必要を感じたのは自分自身に関することだけでした。偶像を拝むのは、自分の後ろめたさをなだめるためです。人生の幸福のために神を求めるのは、自分のむなしさを埋めるためです。

いずれも神を礼拝することに似ているようで、実は全く関係がありません。それは人間が発明した身勝手な宗教です。「自分が愛ある人になるため、不特定多数の人を愛しましょう」というポーズを作るから胡散臭いのです。人は神のために何も供えるものを持っていませんし、獲得も出来ません。そして、この偉大な供え物に何一つ付け足すことはできす、この供え物に対しておかえしも出来ません。

この供え物の偉大さや意義がわからないので、いのちの福音とは無関係なキリスト教が生まれてくるのです。カインではなくアベルとその捧げものがどうして神に受け入れられたのですか。なぜ、アブラハムはイシュマエルではなく、イサクを神に捧げよと命じられたのですか。今日のキリスト教の各派は、カインにつながり、イシュマエルへの流れを作っています。

 「神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自身の義を現わすためです。というのは、今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって見のがして来られたからです。それは、今の時にご自身の義を現わすためであり、こうして神ご自身が義であり、また、イエスを信じる者を義とお認めになるためなのです。」(ローマ3:25~26)

 ここで神は、神の義を現すためのなだめについて書かれています。この世にあふれる罪を見逃しておられるのも、義を現すためでした。逆説的な表現になりますが、キリストの十字架がそれほど完全であるからこそ、この世にこれほどの多くの罪があふれているのです。もし、十字架がないなら今なを各地で起こっている戦争、環境破壊、さまざまな不正や犯罪を、正義の神が、何年も何十年も見逃しはされません。

十字架以前の罪も、十字架以降の罪もイエスさまが十字架に架かられたことによって、すべてを購い、全てを覆しました。それは完了したのです。今はまだ審判の時ではありません。また、目に見える形での世界の回復もありません。しかし、より多くの人々がこの「なだめの供え物」の価値を享受できるように、時がのばされているのだと聖書は語ります。まず、すべてが終わるまでに、「なだめの供え物」として、十字架上で苦しみ、そして死なれたイエスさまの中に、「神の義」を見なければなりません。それが「信仰」です。

「そういうわけで、神のことについて、あわれみ深い、忠実な大祭司となるため、主はすべての点で兄弟たちと同じようにならなければなりませんでした。それは民の罪のために、なだめがなされるためなのです。主は、ご自身が試みを受けて苦しまれたので、試みられている者たちを助けることがおできになるのです。」(ヘブル2:17~18)

 罪のない御方が身代わりに十字架に架かっているだけでも、神の義は満たされたかも知れません。しかし、神の愛はそれ以上でした。キリストのとりなしが、より力強く、かつ、後に彼に従う者達にもその力が及ぶようにと、あらゆる点で私たちと同じ弱さを身にまといながら、この祈りをして下さったのです。

このとき、イエスさまは体力も気力も限界であったと思いますが、その中で、ご自分を鞭打ち、嘲り、ののしる人々を、裏切った弟子たちを、そして私たちを覚えて、祈って下さったのです。神の御子だから、やすやすと自動的に十字架上のことばが台詞のように口から出てきたわけではありません。人としての試みを受け、別のことばや態度が現れたかも知れない可能性の中で、信仰の創始者また完成者として、みことばを選んで下さったからこそ、十字架の価値はいっそうすばらしいものになるのです。それゆえ、イエスさまはあわれみ深い忠実な大祭司であり、王の王にふさわしい方とされたのです。

 御父は何を満足されるのでしょうか、この偉大な御子の従順と信仰をご覧になり、良しとされるのです。聖書の中で、御父が直接語られる声を聞く場面はほとんどありません。直接語らないから御使いや預言者を遣わすわけです。そう考えてみれば、御父が語られたことばはどれほど重要な内容であるかがわかるはずです。そのメッセージは、イエスさまが御父を満足させる唯一の方であると言うことです。
御子が洗礼を受けられたときは、御父は御子ご自身に直接語られました。

「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ」(ルカ9:35)

 そして変貌の山では、弟子たちに対して語られました。
「これは、わたしの愛する子、わたしの選んだ者である。彼の言うことを聞きなさい」(ルカ9:35)

 御子が御父のみこころを成し遂げるからこそ、この方の全てが「なだめ」になるのです。愛する御子が、御父のみこころを選び取って自らの意志として、人の弱さを身にまといながら、苦しみのなかで切に願われるのです。御父はどうしてその願いを聞かずにいられるでしょうか。私たちは御子があまりにも偉大で、その購いが完全であるがゆえに、全く値なしに救われるのです。

「ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。」(ローマ3:24)
と書かれているとおりです。私たちは救われるために、何ものである必要もないわけです。

 イエスさまは、ただ「彼らをお赦しください」と祈られただけではなく、「彼らは自分で何をしているのかわからないでいるのです」ととりなしておられます。「無知」には情状酌量の余地があるのです。しかし、「知ること」は責任を伴います。クリスチャンの責任、福音を聞いた者の責任についても、考えないわけにはいきません。十字架にかけるまでは、人の無知と神の予知のゆえです。しかし、十字架にかかられた今求められているのは、悔い改め改めです。(使徒17:30~31)

クリスチャンはあらゆる場合に十字架を勘定に入れて、物事を霊的に評価できる目を持つべきです。相手が誰であっても、十字架を勘定に入れずに、この世の利害で対立すべきではありません。昔も今も、クリスチャン同士というか、キリスト教関係者同士というか、何とも見苦しい足の引っ張り合いや論争もあります。それは本当に悲しいことです。そして勿論、信仰のない人たちと十字架抜きの争いをするべきではありません。

 それは「理不尽なことにも沈黙して、何でも堪え忍べ」と言うような意味で申し上げているわけではありません。正当な要求はしてもかまいません。悪や不正に対しては怒るべきときには怒るべきであり、正せるものは正すべきです。「神が全てを新しくされるのだから、この世はどうなっても無関心」というような態度は、明らかに間違っています。

環境を守り、戦争には反対すべきです。この世の弱者には可能な限り、手を差し伸べるべきです。心配しなくても、第一にするべきものを間違っていなければ、そういう世直し的なことが、生き甲斐や活動の中心になるはずがありません。私たちはあらゆることを吟味して、本当によいものを見分けるべきです。

イエスさまのユダヤの指導者への痛烈な批判や宮きよめの行動は、この世の道徳的寛容さとはほど遠いものでした。彼らが信じていたのは、唯一の創造者ではなかったですか。彼らがメシヤを待ち望んでいたのは、ただのポーズだったのでしょうか。彼らが大事にして守っていたのは、神のことばではなかったのですか。みことばにある生け贄をささげるために、鳩を売っていたではなかったでしょうか。

 試しに注文しておいた「パワー・フォー・リビング」の冊子が届きました。まさに「生きるための力」というタイトルどおり、その中心は、神をなだめる供え物についての記述は乏しく、人に媚びる内容が大半を占めていました。御父をなだめるものは、御子の人格です。その御生涯と購いの血です。あのような冊子は、キリスト教文化の毒汁であって、その手法もアラブの大義を破壊するお節介な正義と同じものだと私は感じました。

私流に要約すると、「私は私のままで、私の願いをかなえるために成功するには、私を愛してくださっている神のパワーに頼らなきゃ。」となります。私たちの人生に必要なのは、出所の分からないパワーではなく、イエスさまのパーソンです。神と分離したままで成功するためのパワーを得ることではなく、私は弱いままでイエスのパーソンとひとつとなることが大事なのです。

「あの方は盛んになり、私は衰えなければなりません。」(ヨハネ3:30)これは、「女から生まれた者の中で最も偉大」と評価されたバプテスマのヨハネのことばです。どのような装いをしていようと、「私が盛んになる」話は、人間の宗教です。十字架は、私の終わりであって、よみがえりのいのちの始まりです。夢を実現させる自分史の転換点に、神のパワーを借りるだけなんて、ドラキュラよけのアイテムとしての十字架と似たりよったりではないかと私には思えるのです。

 それでもなお十字架は偉大です。何重ものオブラートに包まれていようと、そこにみことばがある以上、みことばにあるいのちが読み手の渇きに対して働きかける可能性には期待します。「パワー・フォー・リビング」が主によって用いられるようにと祈ることは間違いではありません。

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