重い病気を抱えて、それでもキリッと美しく暮らして居られる。そんな部分を私はいつも尊敬している。彼女は子供が幼い頃からの友人。
共に聴覚障害児という重荷を負って生きてきた同士。信仰はそれぞれ違うのだけれど、人生のある部分が重なる友人、共通の知人も恩人もある。
今日はその共通の恩人である、聴覚障害児を教えて下さった塾の先生の話で盛り上がった。彼はなかなか気むずかしい方で、とうとう齢60歳になるまで結婚をされなかった。何度かチャンスがあったというお話は今日始めて聞いた。
「私は子供が成長して幸せに過ごす様子を見る度に、先生をなんだか使い捨てにして来たような罪悪感があって、幸せになって欲しいとずっと思っている。」と話すと、
「そうそう、私もずっとそんな気持ちがあったのだけれど、最近はとても元気にやっておられるよ。良い筋をしているって誉められてアーチェリーに夢中みたい・・お会いしたとき、とても楽しそうで若くなられたよ。こんど試合があるって聞いたから、息子と見に行こうかと思っているの。」そんなニュースはとても嬉しくてほっとした。
今日のビックニュースは息子さんの再就職、それも我が息子と同じ会社に入社出来たと言うことで、二人でとてもとても喜び合った。
聴覚障害はあっても、ちゃんと4年生大学を卒業しておられるのだけれど、彼が入社した会社では、幾ら勤めても一人前の待遇が得られなかったという。
今回の就職条件に「とても感動している。」と満足そうに話されて、私にもその気持ちは痛いほど分かるから、「良かった。良かった。」と一つ心になって喜ぶことが出来た。
そのような喜びを、彼女が自分の信仰に結びつけて話される時、私は深い淵のような距離を感じてしまう。
彼女と出会った頃、私はまだキリスト信仰を持っていなかったから、ある意味もっと純粋に楽しむことが出来たのだけれど・・今は彼女の信仰にとまどってしまって、そんなとき心の中でイエスさまに叫ぶ。
主が置かれた自由の中で人は生きているのであり、そのルールが時にどんなに切なくても、ただ、主にあって生きるという私の選択の日々を、ありのまま見ていて頂くほか無いのだろうなぁ・・。
しかしふっと、人は主の忍耐を少しも知らないなぁ・・。信じている私でさえも、ほとんどの時を気づかずに過ごしているのだろうなぁ・・と、そんなことに気づいた。
互いに重なる時間の中に、どうか主が現れていて下さいますようにと願いつつ・・早くも暮色迫る中に走り去る彼女に手を振った。
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