姦淫の現場で捕らえ「石打の刑」に定められている女を、宗教者はイエスさまの前に引きずって来て裁きを迫った。
イエスは身を起こして言われた。「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」(ヨハネ8:7)
訴える者が去って行ったとき、イエスさまは言われた。
「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。」(ヨハネ8:11)
「罪を犯すな」とは誰でも言える。
しかし、ご真実なイエスさまは、「わたしに従い来るなら、罪の闇を歩まない」と、罪人の避け所であるご自身に招いてくださる。
イエスはまた彼らに語って言われた。「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」(ヨハネ8:12)
イエスさまは彼女の罪を見て見ぬ振りをされたのではない。後に十字架によるご自身の血によって、きっちり罪の代価は支払われるのである。
神のわざが時間に縛られることはないからである。
これは経験によることだが、時間的に手遅れだと思えることを祈って、実際に間に合わなかったことはなかった。
主は時間を越えることができる。だから私たちは過去のことでも未来のことも、望みを持って祈ることができるのである。
「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく病人です。
わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招いて、悔い改めさせるために来たのです。」(ルカ5:31~32)
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