私たちのすべての言葉をイエスさまは聞いていて下さる。
去年の厳しい試練の間に、彼女は主にあって死ぬ経験をされた。大切な者を主にお任せすること。お委ねして待つこと。
ただ、疑うことなく黙ってイエスさを信じ続けて、たどり着いた平安の地なのだ。
「『わたしを信じる者は聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。』
あなたの内に居て下さる聖霊、わかるでしょう・・。」今日はヨハネ7章。じっと見てうなずかれた。
終わってから、どうしてもはっきりさせておかなければならない事をお話しした。
それはお葬式の事。
以前彼女は、キリスト教式でして欲しいと息子さんに言ってあるといわれていたので、主にどのようにしたらよいのでしょうと、私は祈りつつ聞き続けていた。
今朝は、4時頃に目覚めて思い迷ってもいた。主にお任せすることと、無責任とは似ているけれど違うのだから・・。いのちのこのことは何時か分からないので、きちんと私に出来る事と出来ない事は伝えなければならない。
「永遠のいのちの事はイエスさまがすべて準備をして下さった。この上何も付け加えるものはなく、足りないこともないけれど、お葬式はこの世のことだから、この世の備えが居るのだけれど、私にはなんの備えもない。
何処かの教会で洗礼を受けて教会員になると、そこでキリスト教式のお葬式をして頂くことができると思う。どうするかは自分で決めて欲しい。
けれども、お葬式とイエスさまの救いは関係がない。どのような式であっても、もうすでにイエスさまの十字架のあがないを信じて救われたのだから、御国に行くこと、永遠のいのちを頂くことは決まっているのだから心配はしなくても良い。」
そんなお話しをする。
彼女はすぐに「よく分かっている。私は自分の葬式は、息子がどのようにしてくれるか任せようと思っている。キリスト教でしてほしいとは伝えてあるのだけれど・・。心配はしていないよ。あなたはどうするつもり?」
私は散々悩んで話したのにあっさりと受けいれられて、逆に聞き返されてしまった。
「私には何の計画もない。考えないわけではないけれど、イエスさまに完全にお任せしているだけ。御国さえも備えて下さるお方だから、きっとその時にはちゃんと必要は備えてくださると信じているから。」
「そうやね。」二人で納得した。こんな選びで納得する脳天気さが可笑しい。けれども、日々の主の備えを見ており、すっかり心配から解放されてしまうのだから仕方がない。
彼女は洗礼のことにもふれられたけれども、すでに主にあって「死ぬ」経験をしておられる。
「もし、教会での洗礼が必要なら、きっと平安が無くなるからわかるよ。」
「じゃ、大丈夫ね。良かった!」平安のかたまりみたいな笑顔が返ってきた。
「人はうわべを見るが、主は心を見る。」のだから形ではない、主はもっと深いところをすでにご存じなのだもの。
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