石ころ

荒野の備え ⑤(民数記5章)

 

主はモーセにこう告げられた。
「イスラエルの子らに命じて、ツァラアトに冒された者、漏出を病む者、死体によって身を汚している者をすべて宿営の外に追い出せ。
男でも女でも追い出し、彼らを宿営の外に追い出し、わたしがそのただ中に住む宿営を、彼らが汚さないようにしなければならない。」(1~3)

 

ある種の病人や死体に触れた人々は、聖さを保つために宿営に留まることは許されなかった。それは理不尽であっても、伝染する病は遠ざける必要があり、罪の結果である死は神から出たものではないゆえに、汚れであって忌むべきもだったのだろう。

 

この箇所を読んで胸に迫るのは、人を造られた神は忌むべき死の解決のために、キリストを遣わしてくださったことである。愛によってこの理不尽を解決してくださったことである。

 

人のすべての罪の汚れを負ってくださったのは、最も聖なる神のキリストである。聖なる神から罪びとを隔てる幕を切り落として、神のお交わりに入れてくださった。


このキリストに身を寄せる者は、罪によって神から隔てられることはなく、交わりの外に追い出されることもない。罪の代価をキリストの命によって、支払ってキリストの義を着せてくださったゆえである。

 

御救いに与った者は、滅びと汚れの死を恐れる必要はない。死者の霊は造り主なる神の元に帰り、肉はその務めを終えて地に還ることを、感謝をもって安らかに受け入れるのである。

 

罪から出た死はキリストのあがないによって祝福となり、神の子とされて主にまみえる栄光に至るのである。
死がもたらせる別れは、聖霊に導かれるみことばの慰めの中で、悲しみを越えて、天の再会の喜びをリアルに思い描かせ、終わりなきいのちの喜びを、心の深い所にもたらせる。

 

号令と御使いのかしらの声と神のラッパの響きとともに、主ご自身が天から下って来られます。そしてまず、キリストにある死者がよみがえり、
それから、生き残っている私たちが、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられ、空中で主と会うのです。こうして私たちは、いつまでも主とともにいることになります。
ですから、これらのことばをもって互いに励まし合いなさい。(16~18)

 

主はモーセにこう告げられた。
「イスラエルの子らに告げよ。男にせよ、女にせよ、他人に何か一つでも罪となることを行って主の信頼を裏切り、後になって、その人自身がその責めを覚えたときは、
自分が行った罪を告白しなければならない。その人は償いとして総額を弁償し、それにその五分の一を加えて、償いの責めを果たすべき相手に支払わなければならない。(5~7)

 

主が罪の償いを定められたことは、罪責感による責めから解かれるための備えである。
罪は主の信頼を裏切ったこととある。肉を着て生きる者には、心ならずも主の信頼を裏切り続ける者であり、みこころを完全に行うことが誰にも出来ないから。

それは主に誠実であろうとする者に、負いきれない命令である。それは出来ないことを学ぶための命令であり、神の愛に誠実に応えられないことを、体験するためのものである。

 

神はすべての命令の前に、ひとり子イエス・キリストによるあがないを備えておられる。
しかし、神の義を知らないなら救いを求めることはなく、世はそれぞれの必要に応じた善悪を基準として、誰もがやっていることを罪とは認めない。

 

教育は善悪を教えて社会を守るものとなっても、真に神の基準を知ることはなく、人は自分自身さえも誤魔化すことで、心の奥に潜む罪にはなんの効き目も無い。
人が、造り主なる神に逆らう罪を悟ることは、聖霊の働きによるのだ。それは神の聖と義を、霊から魂に教えるからである。

 

聖霊の教えを真に悟ることが出来るのは、キリストによって罪が赦されていることを知った後である。罪を知る鋭い痛みに耐えることが出来るのは、キリストの義の衣に覆われて、キリストがその痛みを負っていてくださるからである。

 

赦された者は許すことを一番に学ぶ。それは自他の罪をキリストに持って行き、キリストの裁きに委ねることを習い性とする時に、キリストには赦ししかないことを体験しているからである。

 

もしその相手の人に、償いを受け取る権利のある親類がいなければ、その咎のために弁償されたものは主のものであり、祭司のものとなる。そのほか、その人のために宥めを行うための、宥めの雄羊もそうなる。(8)

 

祭司がその務めを成すとき、主は彼の必要をすべて満たして養われる。働きの中で祭司の取り分は確保されている。人が貧しい組織や仕組みを作る必要はない。それは、溢れるばかりの神の恵みを貧しいものにしてしまう。
祭司の取り分は人の気分で与えられるものではなく、働きによる報酬として神が定められるものである。

 

神に差し出されたものはすべて祭司のものとなる。今も、キリストの良きものをすべてたまわっている。それは永遠のいのち、愛、平安、希望、神を「アバ父」と呼ぶ家族の交わりである。


ランキングに参加中。クリックして応援お願いします!

名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

※ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最新の画像もっと見る

最近の「Weblog」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事