バルテマイ(なんと名前で呼ばれている)という盲人は、叱られてもイエス様を求めて叫び続けた。彼は金持ちの青年のようにひざまずいてではなく、人の迷惑かえりみず必死で叫んでいた。
イエスは立ち止まって、「あの男を呼んで来なさい」と言われた。人々は盲人を呼んで言った。「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ。」
盲人は上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエスのところに来た。(マルコ10:49~50)
物乞いには上着は財産であろう。それは金持ちの財産とは比べものにならないほど必要であろう。しかし、彼はそれを捨てて、喜びに躍り上がって飛んで来た。
イエス様は彼の信仰を認めて、願いを叶えて目を開き付いてくることを許された。でも、彼の信仰の目は開いていた。彼の行いは一つ主を求めて叫び続けたことであった。
「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。
はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」
そして、子供たちを抱き上げ、手を置いて祝福された。(マルコ10:14~16)
子供たちを叱って退けようとした弟子にイエス様は憤って言われたとある。それはバルテマイの救いとも似ていて、そこには何の条件も無い。子供のように理屈も様子かまわず求める者をイエス様は待っていてくださる。形振り構ってられないほど必要としている者に来てくださった。
離婚はいけない、それは神が結びつけたものだから。
人を殺してはならない、それが造り主の戒めだから。理屈をつけて人殺しの準備をするべきではないと思う。
先に居る多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる。すべて幼子のようにアーメン。
しかし、モーセが言ったように憐れみはある。殺人者にも逃れの町を備えてくださる主。十字架の赦しの中で生きるのは誰も同じである。
「異邦人は、人の子を侮辱し、唾をかけ、鞭打ったうえで殺す。そうして、人の子は三日の後に復活する。」(マルコ10:34)
イエス様はエルサレムに向かって行き、ご自身の死と復活を3度予言される。この時はこれまでになく詳しくすさまじい様子を語られた。
ヤコブとヨハネはイエス様の栄光の座の左右を求めて願った。イエス様の栄光の座は十字架である。
私たちは主のお心を知らずにいろんな事を求める者である。
「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」(マルコ10:45)
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