石ころ

弟子の条件①(ヨハネ18章)

 

イエスは答えられた。「わたしの国はこの世のものではありません。もしこの世のものであったなら、わたしのしもべたちが、わたしをユダヤ人に渡さないように、戦ったことでしょう。しかし、事実、わたしの国はこの世のものではありません。」(ヨハネ18:36)

 

十字架を前にして弟子たちが逃げたことは、神にはご計画のうちであったことがわかる。弟子たちは世の居場所のために戦う者ではなかった。


キリストの弟子は、福音のために取っておかれ、神のご計画のために働く者なのだ。すべては初めのご計画の通りであった。

 

神に召された者は働く時も、戦う時も、逃げ出す時も、すべてが主の導きの中に在ればそれで完全なのだ。人の目にどのように映ろうとも・・。
そのために必要なのは、ただ、うちなるキリストを喜びとして、絶えざる交わりにあることである。

 

なぜなら、人は神のご計画の初めから終わりまでを知らないからである。今何が最善なのか、それは許されているのか、叱責されているのか・・、そのことは、日々のみことばの保証を得ることで、悟り、安息し、力を得ることだからである。

 

そのために聖霊は、みことばを聴き分けること導いてくださる。片時も離れず側にいて、時に相応しくみことばを思い起こさせ、また、解き明かしてくださる。私たちが無視さえしなければ・・。

 

そこでピラトはイエスに言った。「それでは、あなたは王なのですか。」イエスは答えられた。「わたしが王であることは、あなたが言うとおりです。わたしは、真理のあかしをするために生まれ、このことのために世に来たのです。真理に属する者はみな、わたしの声に聞き従います。」(ヨハネ18:37)

 

真理への渇きこそ、神が選んだ弟子に備えてくださったものである。
ピラトは質問はしたが、みことばを聞くこともなく、自分の良い思い付きによって出て行った。彼には真理への渇望がなかったからである。彼に必要なのは手段であった。

 

ピラトはイエスに言った。「真理とは何ですか。」彼はこう言ってから、またユダヤ人たちのところに出て行って・・(ヨハネ18:38)

 

真理に渇く時、人はそこで立ち止まる。あるいは、パウロのように主が介入して、立ち止まらせてくださる。
滅びにまっしぐらに生きる時に、神の介入によって動けなくされることは祝福である。

 

その時、イエスに出会って真理を悟ることができるのは、渇いた心は水の香りさえかぎ分けるからである。
渇いた霊のうちに染み込むように、キリストは心の中に来て住んでくださり、すべてのことを導き、時に叶って力を満たして、祝福の計画を成し遂げさせてくださる。


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