石ころ

日曜日はイエス様のお話を聞く 2007.3.25

saltさんのメッセージ 「復活の証人」 (使徒の働き1章)

「使徒の働き」は、ルカの福音書の続編として、異邦人の医者ルカによって書かれたものです。イエスさまの死後ちょうど30年ぐらい経った頃のことです。イエスさまの死によって全てが終わってしまったかのようにみえたのですが、福音はわずかな時間で当時のローマ帝国を揺るがすほどの、大きな力を持って広がっていきます。その結果、クリスチャン達は皇帝ネロによる激しい迫害にあうのですが、ルカはその事にはいっさい触れていません。このことから、使徒の働きのおよその執筆年代を割り出すことができるわけです。

 ルカはテオピロというローマ人に正しい書物を伝達するために「ルカの福音書」と「使徒の働き」というふたつの書物を書きました。それぞれの冒頭の部分を見れば、ルカの執筆の動機がはっきり書かれています。(ルカ1:1~4,使徒1:1~2)福音書の続編でもある使徒の働きは、教会の誕生から始まり、初代教会の様子が生き生きと描かれています。前半はペテロ、後半はパウロの記事が多くを占めますが、それらはすべて聖霊の働きであり、地上でからだを失ったイエスが、「からだである教会」をコントロールして自由に働かれた記録です。福音書にはイエスさまがいますが、使徒の働きにはイエスさまはでてきません。しかし、それはかたちは違っても「イエスさまの記録」です。これは非常に重要な認識です。

 ルカはそのことを印象づけるために、使徒の働きの冒頭できちんと断っています。「前の書」すなわち「ルカの福音書の記事」は、「イエスさまが行い始め、教え始められたこと」(使徒1:1)だと言っています。つまり、イエスの活動も教えも十字架と復活で終わったのではなく、継続しているのだと言っているのです。ルカの教えを素直に受け止めれば、「まだ続きがある」というより、「これからが本当の始まりなのだ」と言わんばかりの書き出しになっているのが確認できます。使徒の働きの一番終わりの部分を見ても、まるで終わったと言う印象を受けません。(使徒28:25~30)

 この箇所を見れば、異邦人の医者であるルカが自分の使命をどのように考えていたかがわかります。福音がユダヤ人だけでなく、異邦人へ、全世界へと広がってゆく過渡期に、律法の知識や創造主に対する知識が乏しい人たちに、客観的に読んで検証するに足りる資料を提供する必要があるとルカは考えていたのです。福音書と使徒の働きの前半は綿密な取材をもとに、使徒の働きの後半は自らがパウロに同行して実際に見聞きした内容をまとめたものです。繰り返しますがルカは医者です。人が死んだら生き返らないことは、誰よりも良く知ってます。ルカは常識では有り得ないことが起こったので、さまざまな噂や教えで混乱する中で、正確な情報を集めたのです。

ルカはパウロの伝道旅行に同行したことがどうして分かるかというと、パウロの書いた手紙の挨拶の中に何度かルカの名前が出てくるのです。パウロは愛する医者としてルカを紹介しています。さらに「使徒の働き」では、前半は弟子たちのことを「彼ら」と表記していますが、途中から「私たち」に変化します。
 具体的に働いたのが「彼ら」であろうが「私たち」であろうが、それはイエスの働きです。同じ聖霊の力です。ルカはその事を良く知っていたはずです。
 教会を通してなされる聖霊によるイエスの働きは、そのいのちの流れを受け継いで、今日に至るまで脈々と続いているのです。

 ですから、私たちが今再び、この使徒の働きを学ぶとき、「本来クリスチャンはこうあるべき」「このようであるはず」という外側からかせをはめるような読み方をしがちですが、そうではなくて、同じいのちが私たちの内にあるという事実が感じることができるように願うべきです。そしてそのことに驚き、大いに喜ぶことです。そして、私たちさえそのいのちに完全に委ねるなら、主は「今この終わりのときにしようとしておられることをされるのだ」と信じることです。私たちは主からはなれて何事もなすことは出来ません。ですから、主がして下さることをただみことばの約束に期待してとどまるのです。

 その点では、当時の弟子たちも私たちと全く同じです。ルカは
「イエスさまは、40日にもわたって繰り返し弟子たちの前に現れ、ご自分が間違いなくよみがえって生きて居られる証拠を示された」と書いています。(使徒1:3)
使徒の働きはすべてイエスさまの復活が前提になっています。復活が単なる希望を正当化するための教えにすぎないのなら、この後の記録はないはずなのです。復活の事実を確認できなければ、確信できなければ、ローマ帝国を相手にした福音伝道などできるはずがなかったのです。

組織もなく、力もなく、学問もない、ないないずくしの集団です。使徒たちはそれこそ、イエスの使徒であると言う以外何もない人たちでした。その使徒という資格も、世間的には全く通用しない、ユダヤ教ナザレ派とでも呼ばれていた少数の異端者の集まりです。ユダヤ人にも異邦人にも何の権威もありませんでした。そういう状況だったということをよく知っておくべきです。

 イエスさまの命令は、「エルサレムに留まって約束を待て」ということでした。その内容は、聖霊が臨まれると、力を受けるということ、そして、証人になるということです。逆に言えば、聖霊が臨まれない限り、私たちは証人ではないと言うことです。(使徒1:7~8)
 証人と言うことについて考えてみたいのですが、復活の場面でも、昇天の場面でも、主の側にはちゃんと御使いをふたり用意されています。御使いひとりでは能力不足ということではありません。全てのことは、ふたりの証人によって確認されなければならないからです。(ルカ24:4)(使徒1:10)証人となると言うことは、それほど大事なことなのです。間違いのない事実としてきちんと確認された事柄が、こうして伝えられてきたわけです。(マタイ26:60~61)(ヘブル10:28)

 クリスチャンは復活の証人でなければなりません。証とよく言いますが、私たちはちょっとラッキーだったことを神様に関連づけて語ることを証だと思ってはいけません。証とは、キリストが復活したというと言う証なのです。
なぜ多くの教会にいのちがないのでしょうか。それはそもそもそこに、イエスの復活の信仰がないのです。ですから、そのような信仰の中では、どうあがいたところで、文化や道徳のお話にしかなりません。聖霊という言葉やそれに伴う現象を強調したところで、それはキリストの復活とはかけ離れた超常現象の領域にはまってしまいます。

 さて、ペテロはイエスさまを裏切って自殺したユダに代わって、12人目の弟子を決めることを提案しています。このくだりを読むと、自分はもっとも派手にイエスさまを裏切っておきながら、そのことは棚に上げてよく言うよと思うような激しい口調でユダを非難しています。このことを見て感じるのは、ペテロの明確な生まれ変わりです。ペテロはもう裏切った過去を引きずってはいません。この後もペテロは初代教会のリーダー的存在として活躍しますが、決して罪滅ぼしのために頑張っているのではないと言うことがわかります。

ペテロは旧約聖書の約束にこだわり、みことばの具体的な根拠を元に論を展開していきます。「イエスの復活の証人」としての教会の基礎を築く十二弟子となる資格についてペテロはこう言っています。それは「ヨハネのバプテスマから、昇天までの間に、何時も行動を共にしていた人」です。もちろん、ルカもパウロもそれには当たりません。それほどこの使徒職のつとめと地位は特別なものでした。これは当たり前の条件のように思いますが、この世的には当たりまえではありません。この世が何事かを始めようと組織する時は、当然その中核をしめるのは、頭のいい、能力の高い人たちです。ペテロやヤコブ達は田舎の漁師なのです。生活の知恵はあっても、エリート達と論争できるような学問はありません。当時の指導者たちがどのように使徒を評価したかは、これまたルカが正確に記録しています。

「彼ら(ユダヤの指導者たち)はペテロとヨハネとの大胆さを見、またふたりが無学な、普通の人であるのを知って驚いたが、ふたりがイエスとともにいたのだ、ということがわかって来た。」(使徒4:13)と書いてあるとおり、使徒たちが無学であったことが、いっそう証としては効果的に働いているのがわかります。実はこのことが重要なのです。

 安部内閣は教育現場にも市場原理を持ち込んで、早くから競争させ、子供たちをふるいにかけようとしています。考えてみてください。支配者層にしてみれば、国民の大半は使い捨ての労働力に過ぎません。政府は学校に何を期待するでしょう。政府を転覆させるような反対勢力になりうる批判力や行動力を持った人材ではなく、従順な労働力になってくれれば事足りるわけです。まあ、百マス計算などが速く正確に出来ればそれでいいわけです。ほとんどの大学がレジャーランドであっても、一部の大学で官僚になる人たちを養えればあとはどうでもよいのです。

 神さまはそうではありません。神の国の力は、幼子たちの賛美によってもたらされるのです。私たちは単純な理由で教団教派を批判するのではありません。自民党内の派閥争いのような発想で私の発言を評価する人は、そもそも何一つ分かっては居ないことを明らかにしています。私が問題にしているのは、みことばに根拠がないところに、この世的な価値観で力を担保し、資格を保証することが間違いだと言うことです。これらの人間的な遣り繰りは証の力を決定的に弱めているのです。その発想は、安部内閣に代表されるエリート主義と同じです。

聖霊がくだることによって、「キリストがよみがえったのを見た」から、その証は「キリストが私の内側によみがえった」となります。この違いは明確です。このことを具体的に経験していない人は証などしようがないのです。
 パウロは
「私たちは自分自身を宣べ伝えるのではなく、主なるキリスト・イエスを宣べ伝えるのだ」と言っています。(Ⅱコリント4:5)さらにパウロは続けます。
「 私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです。」(Ⅱコリント4:7)
これが本来の証の目的であり動機であるべきです。まさにルカが書き送ったように、「聖霊によって力を受ける」のです。決して私たちが力をつけるのではないのです。

 器である私たちは、所詮「土」なのです。私たちは、その中にあえて住んでくださる方の偉大さとその祝福を告げ知らせるのです。私たちが証に対して臆病になったり弱気になったりするときは、何か別の資格によって、違った何かを伝えようとしているのです。本当に信じているのなら、同じ主が住んでいるのです。外側の器が丼だろうが、湯飲みだろうが、おちょこだろうが関係ありません。かけた茶碗だっていいのです。
 このように見てくると、「器」を強調することがいかに間違っているかおわかりだと思います。
「無学な普通の人」こそ、力強い復活の証人となるべきです。

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