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石ころ

今朝のみことばから (3月30日)



 ゲッセマネで祈られる時、イエスさまはなぜいつものようにお一人で祈られなかったのだろう・・。あえて弟子たちを連れて行かれた理由には、まだ何かありそうだと思い巡らせていた。

旧約聖書では、神の居られるその山に近づくことは死の覚悟が必要だった。しかし主の十字架で至聖所の幕が裂かれたときから、人にはそこに踏み込む歓喜が与えられた!みことばの光りをかかげて深い森を探検するように・・。

みことばを反芻することは甘いこと、いつも新しくイエスさまの愛に出会うことが出来る。「分かった」って思ったその向こうにもっともっと深い森が広がっている。そこに踏み込むことはとてもワクワクすること。


 弟子たちがいかに頼りない者であり、直後にみな逃げることを知っておられたのに、まるでイエスさまは彼らに頼るように、重大な祈りの場に連れて行かれたのはなぜか・・
「まさか眠るとは思わなかった・・」なんてことはありえない。
イエスさまは人の弱さを知り尽くしておられるのだから。ならば・・、彼らのあの弱さこそが必要だったのではないか・・。
弱い彼らこそが、十字架に進まれるイエスさまの力となったのではないか・・。


 近頃、「何の役にも立たない者が・・なぜ?」と私事に置いても思うことがある。でも、ただ、イエスさまを必要とする者がお側にいることが、イエスさまにとって必要なのではないか・・。そんなふうに思うと納得出来るようになった。

「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。」(Ⅱコリント12:9)


 イエスさまは御父のみこころを成し遂げる為にこられたのだけれど、だからってそれを機械的に無感動になさったのではない。
イエスさまは完全に人と成って魂を持っておられ、涙さえも流された・・。人の悲しみを負い、痛みをになわれた方。

その聖いお方が生涯に初めて経験なさったのは、人の累々たるおぞましい罪。主が悲しまれ、血の汗を流し、心を裂くほどの恐怖と苦痛の中で、それらに耐えることがお出来になったのは、彼らへの、また私たちへの愛のゆえであり、私たちはイエスさまにそれほどに愛されたのだ。

「あなたがたは、そんなに、一時間でも、わたしといっしょに目をさましていることができなかったのか。
誘惑に陥らないように、目をさまして、祈っていなさい。心は燃えていても、肉体は弱いのです。」(マタイ26:40~41)

肉によってはイエスさまと居ることは出来ない。聖霊、賜った助け主によってイエスさまに付いて行こう!

弟子に出来たことはひとつ、「主よ。私たちには何もできないのです。あなたが必要なのです。」と、完全な弱さの中で主の必要をあらわしたこと。
そうして主は、彼らが見て触れた救い主を世に伝えなさいと言われた。その働きはこのように、ゲッセマネでの自分たちの弱さを語るところから始まったのだと思う・・。

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